第144話 光と影●「これが東京」

文字数 2,305文字

 江口敏は一人で東京駅に降り立った。第一印象は「名古屋とは違う」というものだ。駅のホームから見えるビルの高さ。ホームに溢れんばかりの人の数。自分と同年代の若者のファッション。国鉄、私鉄、地下鉄が入り組んだ路線図。迷子になりそうな路線の数。江口は軽く眩暈を起こしているのを自覚した。「こんなことなら土下座してでも矢吹君に来て貰えばよかった」と思った。
 ひとまず入団の挨拶のために大手町にある東京ガイヤンツ球団事務所へ向かったのだ。当初は父に同伴してもらうように頼んだが「事業をほったらかして東京へなど行く暇はない。それに、これからガイヤンツの一員になろうって選手が父親同伴で挨拶に来たなんてマスコミに知られたら、お前は笑い者だ」と断られた。弱った江口は矢吹に相談した。「俺も東京のことなど全く知らん。新幹線で東京駅に出て、ちょっと歩けば球団事務所のある大手町だろう?それでも不安だったら地下鉄の大手町って駅で降りればいいんじゃねぇか?」と、これまたあっさり断られた、
 高校二年の頃。江口は矢吹に注意されたことがある。公式戦でも練習試合でも小宮、青木といった青雲大付属野球部の歴代キャプテン。その後を継いだ矢吹の道案内で甲子園でも地方球場に行っていた。言うなれば金魚の糞だったのだ。名古屋の街には何度か行ったが、同い年の割には繁華街慣れした矢吹がいたから迷わずに行くことができた。一人で行く時には馬鹿の一つ覚えのように矢吹に教えられた経路だけを使っていた。
 「江口も、自分で地図でも調べて自分で見知らぬ土地を歩けるようになれよ。もし俺や野球部員と逸れたら、お前は迷子になるんだ。みっともねぇだろ!甲子園を沸かせた天才ピッチャーが町の人に道を訊いたりしちゃ!」
 その度に「あぁ、何度か行けば覚えられるよ」と答えていた。甲子園大会を優勝で終わった帰りの汽車の中で江口は矢吹に「お前と出会えて俺は凄く面白い高校生活を送れた。だが、お前はプロ野球の世界に入る。俺は、また何か次の目標を探して、どこかの大学に進学する。このバッテリーは今日で解散だ」と宣言した。野球技術に於いては常に江口が上だったが、遊びも含めて普段の生活は全て矢吹がリーダーシップを取っていた。朱美やヨーコとの付き合いも矢吹がいなければなかった。甲子園で活躍してラブレター等を貰うことも増えたが、その対応も矢吹のアドバイスに従っていた。
 外側から見れば江口という天才投手の相棒を勤め、慣れない野球を懸命に覚えたキャッチャー矢吹というイメージだったが、彼らを良く知る者には江口の兄貴分が矢吹。矢吹がいなければ江口は一人じゃ何も出来ない。甲子園で江口が注目されたのも矢吹の助力があってこそ。と評価していた。それはライバル由良明訓の主力メンバー田山、岩城、馬場、里中もそうだった。一時期野球部のマネージャーを務めた内川亜紀も江口ではなく矢吹への片想いが発端である。江口敏の入学によって青雲大付属高校野球部は一躍有名校になったが、亜紀にしても「江口君一人では、どうにもならなかった」と思っていた。
 もう自分の近くに矢吹はいてくれない…と実感すると江口は急に心細くなった。「東京駅から大手町は歩いても近いと言うが…不安だ。地下鉄に乗ろう。あの丸の内線っていうので合っているはずだ」決意した江口は東京駅の地下道を歩き始めた。しかし、まるで迷路である。名古屋駅や新大阪駅とは比べ物にならない。もっとも江口にとっては他の部員がいなければ新大阪駅さえ一人では歩けなかっただろう。そんな時、
 「君は甲子園で活躍した江口選手だろう?」
 と声をかけてきた男がいた。正直、江口はバツが悪かった。田舎の高校生ぶり丸出しで東京駅で迷ってキョロキョロと周りを見渡している自分が、みっともないと思っている。その男は若く生き生きとした表情の好青年だった。
 「驚かせてごめん。僕は東京報道新聞のカメラマンで武田という者だ。ひょっとして東京ガイヤンツ事務所に行こうとしているのかい?ちょうどいい。僕も、これから新聞社に戻るところだ。球団事務所と新聞社は、すぐ近くだから一緒に行こう」
 「た…武田さんですか…ありがとうございます。僕…東京に一人で来るのは初めてで…もうややこしくて…」
 武田は軽く笑いながら
 「気にするなよ。地方の学校からガイヤンツに入団する選手は、みんな最初の挨拶で道に迷うもんだ。君と同じ岐阜出身の林さんなんて最初は酷かったらしいぜ。東京出身の選手なんて司馬さんと芝山さんぐらいだよ」
 「ありがとうございます」と言いながら江口は颯爽と丸の内のオフィス街を歩く武田の垢抜けた雰囲気に飲まれていた。野球少年の誰もが憧れるガイヤンツからドラフト一位指名を受けた時には夢のように、うっとりしたが今は不安しかない。行きなれた名古屋の中京ドアーズや甲子園球場をホームグラウンドにする兵庫タイタンズに入団するのなら、ここまで不安にはならなかったと思っていた。
 武田の案内でガイヤンツの球団事務所に到着した。少し待たされたが河村監督を始めとする首脳陣と初めて会った。テレビでしか観たことのない河村監督は、にこやかな表情で接してくれたが、江口は緊張で背中にびっしょりと汗をかいているのを自覚した。「頑張ります。よろしくお願いします」以外に口から言葉が出てこない。二軍監督やピッチングコーチを紹介されたが、その誰もが威厳がある雰囲気を身に纏っていた。もう十一月の肌寒い季節になっていたが江口は全身が汗だくになり、口の中がカラカラに乾燥し、声が擦れてしまう自分に自己嫌悪を感じてしまっていたのである。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み