第202話 心の暗闇●「疑心暗鬼」

文字数 4,187文字

 東京ガイヤンツ球団を経営する東京グループはマスコミを母体にする大企業である。テレビ局の東京テレビ。一般新聞の東読新聞が主な事業である。また東京ガイヤンツの機関誌を呼ばれるスポーツ新聞、東報新聞もガイヤンツの全盛期の勢いを得て発行部数を伸ばしていた。親会社が大手マスコミであることで他社がガイヤンツを取材することに関しては非情に厳しい。
 後楽園球場で行われるガイヤンツ主催試合などは東報新聞の記者やカメラマンがマスコミ席を陣取り、他のマスコミは、その余った席で取材や撮影をさせられた。かつては横暴な東京グループに対抗せんとする会社もあった。高橋スターズの前身は毎朝スターズといい、毎朝新聞社が親会社であった。横暴なガイヤンツを抜きにパシフィックリーグを設立したのも毎朝の手腕である。
 同一リーグでは富士コンドルズが富士グループというマスコミ会社である。しかし清涼飲料水が親会社の筆頭となっている。東京グループに喧嘩を売るよりは下出に出てガイヤンツ戦のスタンドでも富士ドリンクのジュースやお茶を売りまくろうという魂胆である。唯一、商売敵として踏ん張っているのが中京ドアーズの親会社中京新聞である。東京グループに比べれば地方を拠点にした会社だが、その対抗意識は強い。ドアーズもセントラルリーグの強豪チームであり、シーズン二位で終わることが多い。野球でもビジネスでもガイヤンツに対抗してきた会社である。
 それだけに中京新聞に対してガイヤンツ球団は冷遇した。シーズン前のキャンプ報道でも報道規制を河村監督自身が決める。真っ先に「取材お断り」されるのが中京新聞関係である。続いて富士ジャーナル、毎朝新聞が締め出される。記者連中は「ちっ!河のカーテンが閉められた」と文句を言いながら、すごすごと引き上げるしかなかった。
 それら大手マスコミとは一線をひいているのが夕刊紙の記者達の存在である。東宝スポーツや夕刊ダッシュ、日刊タイムス等がある。一般的な新聞が朝刊と夕刊の二部で、その日の出来事を活字で各家庭に配達されるのに対して夕刊紙は会社帰りのサラリーマンをターゲットにした下世話な情報新聞である。
 連載小説は概ね官能小説。一面こそ政治、経済、スポーツ、社会問題などを扱っているが、購読者の体裁のためにガセネタの飛ばし記事を作っているに過ぎない。ギャンブル、性風俗の記事が目当てで購入する読者が大半であった。釣り場情報や美味い飯屋の情報なども人気があるが、それを目的にされる誌面ではない。政治記事も政治家の愛人問題や裏金問題の記事ばかり。芸能人の不倫、妊娠、中絶など、やりたい放題である。
 プロ野球に関しても肝心の試合結果やタイトル争いは二の次。スター選手のスキャンダルばかり追っている。「近畿リンクス村野選手兼任監督!愛人発覚」などという大見出しに「私生活が忙しくて野球に手がつかん…」などという小見出しがつく。「タイタンズ近井!川崎トルコで場外ホームラン!」「上のバットは司馬に任せた。わしは下のバットで勝負や」等の記事で物議を醸し出すこともある。
 比較的、関西の球団が、これらスキャンダル記事の餌食になりやすいのは、タイタンズ、パールス、クリッパーズ、リンクス等の在阪球団がスキャンダルにも大らかな体質もあった。またガイヤンツばかりが話題になる。悪い噂でも書いてもらった方が球団の宣伝になる…と考えている部分もあった。
 しかし、火のない所に煙は立たないというが、それも本当だった。夕刊紙の記者達は球場までは足を運ぶが試合など真剣に見やしない。球場内の売店付近に記者同士でたむろして情報交換をしている。試合が終わると駐車場に移動し、目当ての選手を尾行したりする。歓楽街の顔役と仲良くなり、時には賄賂を与えて情報を収集する。
 そんな夕刊紙の一つ、桃園新聞の山井という記者は記者仲間の間でも要注意人物であった。記事そのものは、ろくに書かないが、新人スポーツ選手に旧知のトルコ嬢をあてがい、いざ…というところに踏み込んで写真を撮り、掲載しない代わりに口止め料を要求する。スター選手がホステスを妊娠させるように仕向け、選手本人ではなく球団を脅して多額の口止め料を要求することもある。もともと相当の悪だったらしく暴力団員やチンピラとの知り合いも多く、彼らをけしかけて脅すこともあった。
 金の亡者とも呼ばれる山井だが、この男なりに気骨はある。まだ他の記者が暴露出来ていない東京ガイヤンツ関連のスキャンダルをすっぱ抜くことだ。グラウンドで「河のカーテン」と呼ばれるガイヤンツのガードの固さは選手の私生活にも及んでいた。プロ野球の若手が暮らす寮で、先輩格が有望な新人選手をトルコ風呂に連れて行き童貞を捨てさせるのは、どの球団でも黙認されている行為だ。
 十八歳から二十代前半が集まる寮生活で嫌われるのはホモ行為の氾濫である。当たり前の話で性欲が高まる年頃。体力も十分なスポーツ選手が修行僧のような生活が出来る訳がない。そのため首脳陣が「こいつはモノになりそうだ」と思われた新人は先輩から単刀直入に「お前は童貞か?」と訊かれる。「そうだ」と答えると「お前もプロ野球選手になったんだから、女も覚えておけ」と連れられる。下手にファンに手を出して、いざこざが起こるよりは金で収まるトルコ嬢の方が良いという考えだ。
 山井の勘…という曖昧なものではなく確証としてガイヤンツの選手でも同じことをやっている。寮のある東京多摩市から神奈川川崎の歓楽街は目の鼻の先である。怪我などで一軍登録抹消されたレギュラーが二軍にいる時期などは、確実にある。ある晩、若手寮で張っていると調整中のレギュラー選手が若手を二人ほど車に乗せて出発した。山井はオートバイで尾行をした。
 間違いなく国道15号を西に向かっている。目的地は川崎堀の内だ。街道沿いの駐車場に車を停めると、彼ら三人は歓楽街の方に歩いていく。入って行ったのは「千夜一夜物語」という堀の内でも有数な高級トルコ風呂である。十分ほど時間を空けて山井も「千夜一夜物語」に入った。フロントで訊いても「知らぬ存ぜぬ」を貫くに決まっている。ホステスでもトルコ嬢でも大衆店の女は口が軽いが高級店の女は口が堅い。男性の支配人も同じだ。
 山井は入り口付近で掃除をしているボーイを掴まえた。「今、入って行ったのはプロ野球の選手じゃなかったか?」とカマをかけてみる。ボーイは「さぁ?それでしたらフロントで訊いてください」と逃げられる。そんなやり取りを察した支配人が来る。「ガイヤンツの選手?当店では、そういうお客様はおりません」と追い帰される。
 仕方なしに出て来る所を張っていると地元のチンピラに喧嘩を売られた。「たぶん店に雇われている組関係の連中だ」とピンと来る。こんなところで喧嘩は御免だ。仕方なく歓楽街を後にするしかない。
 山井は数人の垂れ込み屋を抱えている。情報によっては命に関わることもあるので、彼らは本名を呼び合わない。この垂れ込み屋を山井は「ヤス」と呼び。「ヤス」も山井を「ヤマさん」と呼んだ。「ヤス」は山井の中でもガイヤンツ担当だった。と言っても今まで凄いスキャンダルを掴んだことはない。ホームラン王の司馬を尾行してみたことがある。散々、苦労した挙句、司馬が入ったのは高級なお寿司屋だった。これで愛人との密会であれば最高だと思って「ヤス」も入ってみると、司馬は一人で寿司を食べていた。この店の大将とは友人で上機嫌で「上トロ」「ウニ」「ヤリイカ」などと頼んでいる。司馬の大食漢は球界でも有名だが、何と握り寿司を百貫ほど食べ「ここは高いから後輩なんか連れてこれないよ」と笑いながら数万円を払って帰った。
 「さすがはホームラン王!高級お寿司百貫をペロリ!…これじゃガイヤンツの応援記事じゃねぇか!まぁ失敗はしょうがない。相手は天下の東京ガイヤンツ。そう簡単に尻尾は見せない。しかし奴らにも、どこか隙はできるはずだ。狙い続けていれば必ず金になる!」
 と「ヤス」に言い続けた。今回は「ヤス」の方から山井に報告があるという。
 「いやぁ。ヤマさんの探している、オチンコ、オマンコのスキャンダルじゃないんですがね。どうもガイヤンツの若手寮がおかしいんですわ。近くに住んでいる知り合いから聞いたんすけどね。先週、夜中になってランプもサイレンも消した救急車がガイヤンツの寮の玄関に停まってたっていうんです。そいつはガイヤンツの大ファンで詳しいんですよ。その救急車から降りたのは医者らしき若い男と長尾ヘッドコーチだったって言うんです」
 「救急車?怪我人でも出たんじゃないか?」
 「しかし、もうじき九月になろうって時期に、ほとんど二軍の選手しかいない若手の寮にヘッドコーチが来ますかね?優勝争いの大事な時期じゃないですか?それに怪我人だったら救急車にサイレン消させますか?翌日の新聞によると夜中にバットで素振りをしていた選手が誤って同室の選手にバットを当てて骨折させたって書いてあるんです。そんな怪我ならば救急車はサイレン鳴らして急いで来るはずですわ。それも誰が誰に怪我をさせたか?全く書いてない。そいつが、そのまま寮を見ていると、しばらくして長尾ヘッドコーチだけじゃなくて二軍監督の黒岩。二軍ピッチングコーチの中川も出て来たと言う。バットの素振りで骨折ならですね。寮長が救急車呼べばいいだけの話なんですわ」
 「なるほどな。一見、何でもない事故ならば、わざわざ首脳陣が駆けつける必要はない。プロ野球選手の寮で素振りによる怪我じゃ…ありきたりすぎる。ひょっとするとシゴキか何かで若い選手が死んだとか…まぁ死ぬまでいかなくても危篤になるような事故を起こした。救急車のサイレンとランプを消させたってのは、この一件を隠そうとしてやがるな。天下の東京ガイヤンツがシゴキで新人を死なせたとあっちゃ世間は黙ってねぇ。ありえる話だ」
 「ヤマさん。俺も手伝いますぜ。東京ガイヤンツを盟主の座から引き摺り下ろしてやろうじゃないですか!」
 「おう!「ヤス」俺もお前も、上品ぶった野郎や紳士ぶった野郎は一切認めねぇって悪党だ。悪党が紳士を追い詰める。一世一代の大仕事やってやろうぜ!」
 山井は、この疑惑の救急車に目をつけていた。
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

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