第160話 覚醒と崩壊●「欠陥疑惑」

文字数 2,234文字

 東京ガイヤンツ、レギュラー陣にとって球速もあり、コントロールも良い江口敏を仮想タイタンズの湯夏投手と見立てて打撃練習をすることは効果的な練習になった。同じ左腕投手、剛速球を外角低めにピタリと決める制球力を伴っている点で両者は共通している。同じセリーグ屈指のサウスポーでもガイヤンツの高岡一三は制球力不足に悩んでいるところがある。
 しかし河村監督としては面白くない結果であった。原因は打撃投手をやらせてみて失投が一球もなかったこと。コントロールの良い湯夏でも外角ギリギリを狙ったボールが外れることもある。江口は、それが一球も外れないのだ。もう一つはストライクゾーンの真ん中辺から打者側、すなわち内角に食い込むボールが一球も投げなかったことである。前者は投手としてリーグ最高の大投手湯夏よりも江口の方が上と見ることはできる。また後者は、新人の江口がガイヤンツの主力選手に怪我でもさせたら申し訳ないと意識し過ぎて投げられなかったのではないか?というものである。
 しかし河村の脳裏にはフリースカウトの八木、スカウト部長の岩田からドラフト会議直前に江口敏への一位指名を否定されたことがある。両スカウトの言い分としては「江口投手がバッターの内角を攻めるボールを投げるところを見たことがない。投げないとも考えられるが投げられないとするとイップスのような症状であり、ピッチャーとしては致命的な欠陥である」というものだ。
 この提言を河村は「所詮は高校野球レベル。投げる必要がないボールである」との仮説で突っぱねた。岩田は、あくまでも江口指名を回避して投手であれば由良明訓の里中繁雄を単独で獲得すべきだと食い下がったが河村には、まるで流行歌手や俳優のように痩せた里中がガイヤンツで通用するとは思えなかった。また外野手と投手を兼任している点も好かない。「本当に実力のあるピッチャーならば一戦も負けられない高校野球のトーナメント戦において監督は他のピッチャーに投げさせ里中をセンターで使うことはない」と突っぱねた。
 今になって河村には八木や岩田の提言は正しかったかもしれないと感じていた。もちろんドラフト一位で意気揚々とプロ入りした選手でも大成せずに数年で引退していく新人は多い。とは言え高校一年時から目をつけていた江口敏に、そうなって欲しくはない。また入団当初から打者転向を唱える首脳陣もいたが河村は否定し続けた。
 新たに河村から長尾二軍監督に課した江口育成策は「二軍戦での先発させ、何があっても七回までは交替させないこと。捕手からは打者への内角責めを執拗に要求すること。場面によっては故意死球まがいのブラッシュボールを要求すること」の四条件を与えた。名将河村らしく早いうちに江口の欠陥を明らかにしてしまおうという策である。
 長尾は江口に二日間の休養を与えると松映ロビンスとのイースタン戦への先発を申し付けた。
 「頑張ります!」
 と直立不動で笑顔を浮かべる江口に苦笑しながら、長尾は厳しく釘を刺した。
 「いいか!江口。他の球団では結果が良ければ許されるかもしれんが、ガイヤンツは厳しく処分する。特にベンチからのサインに従わなければ一軍のレギュラーでも罰金処分がある。送りバントのサインが出ているにも関わらずホームランを打った打者が罰金を課せられたこともあれば、敬遠四球のサインなのに勝負に行った投手も罰金だ。例え結果が三振でもだ。二軍の場合は公式戦出場停止処分もある。これだけは覚悟しておくように!」
 「はい!ですがシュートとかフォークボールのサインが出ても僕は投げられませんが」
 「バカモン!二軍とは言えガイヤンツの捕手だ。お前の球種ぐらいは理解している。それよりもコース。あえて外すボール。ランナーが出た場合の牽制球などのサインを見落とすな!」
 と厳しく注意して立ち去った。江口は二軍戦であれ、先発投手を命じられたことが嬉しかった。満面の笑みで長尾を背中を見続けた。寮の部屋に戻ると同室の淡谷に先発が決まったことを報告した。好打者の淡谷は貴重な左打者、強肩と好打を買われて出場機会を増やしていた。
 「よかったな。江口君。先発で結果を出せれば一軍行きも夢じゃないよ。新山先輩が先に一軍入りしたけど、入れ替わりになるんじゃないか?俺もスタメンで起用されたらいいな。まぁ明日の試合で良いバッティングができるようにがんばってみよう」
 と喜んでくれた。その後、
 「対戦相手はロビンスだね。確か今のロビンス二軍の四番打者は土井さんだよ。ほら、江口君は一年の時に対戦経験があるんじゃないのかい?その後は若い監督として由良明訓高校の甲子園三連覇を達成したんだよね」
 「へぇ。土井さんかぁ」
 「イースタンでは活躍しているから、今にも一軍昇格しそうな勢いだけど、まだ二軍にいれば江口君との対戦は楽しみだね」
 「うん。バッターとしては田山君の影に隠れていたけど、土井さんの作戦には僕もやられたからなぁ。凄く頭の良い選手になっていると思うよ」
 入団以来、江口と仲のいい淡谷だったが、江口の子供っぽい考え方には疑問を持ち始めていた。内心では「江口君の人柄は褒めたいが、ちょっとお人好し過ぎる。ロビンスに土井さんがいることを判っていて長尾監督が先発を命じたはずだ。ある意味で高校時代の江口君のピッチングを真剣に見て、しかも二回は攻略している人がいるチームなんだ。この怖さを彼は判っていない」と不安が過ぎっていた。
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

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