第97話 若者たちの敗北●「嘘のない学問」
文字数 2,274文字
幸い野球部OBから逮捕者が出るようなことはなく、織田監督と顧問の天野が校内の会議室で数名の刑事に事情を聞かれるに留まった。
「しかし、そちらの江口君というピッチャーは凄いですなぁ。私は関西の出身なんで東京ガイヤンツよりも兵庫タイタンズや近畿リンクスが贔屓でしてな。ぜひともプロ野球でも関西を代表する大エースになって欲しいものですな」
「生憎ですな。江口は、この岐阜から近いということで名古屋ドアーズのファンだそうです。まぁ今はドラフト会議もありますし志望したチームに入れる訳ではないですから若者は可哀相です」
織田はすっ呆けた調子で受け答えした。どこかアウトロー的気質のある織田にとって警察官は好きな人種ではない。
「それと今、そちらの野球部でキャプテンをやっている矢吹選手。最近は聞きませんが中学時代は少し非行化していた様子で、名古屋の暴力団員との交際などを調べられているのです。彼については監督さんや先生は、どうお考えで?」
「努力家ですよ。中学時代の事は私も噂程度でしか聞き及びませんが、本校に入学してからは努力家です。野球部に関しては誰よりも一生懸命ですし、本校の規則である学業成績の悪い生徒は部活動を禁止するという校則も守っております。時には私のところに補習授業を自分から要求するぐらい矢吹君は真面目な生徒です」
刑事の横柄な態度に温厚な天野まで少し憮然とした顔で対応した。
「ほほう。文武両道ですか?結構ですな。私は、てっきりテストの点数でも甘くして野球部から出さないようにしているのかと思ってましたよ」
織田は嫌がらせのように刑事の顔に自分の顔を近づけた。
「刑事さんさぁ。矢吹を何かで疑うのは、あんたら警察の勝手だが、全共闘やらブントやらに共感するような奴じゃないよ。学生運動ってのは左翼だろ?矢吹が暴力団員と関わっていたとしても連中は右翼だ。社会思想的には丸っきり逆方向じゃないか?むしろ矢吹が右翼団体と今から関わっているとすれば合点がいくが…左翼学生と奴が意気投合する道理がねぇ」
「まぁ監督さんの意見も理解できますがね。左翼も右翼も我々から見りゃ反社会組織に過ぎんのですよ。もちろん思想は、どちらに傾こうが自由ですよ。だがねぇ。こちらみたいなインテリ層が集まってくる高校の生徒は、何かの拍子にマルクスやエンゲルスに傾倒してしまう傾向がある。もともと保守派だった学生が革命派に乗り換えてしまう危険性も孕んでいるんです」
「俺は野球の教育をやってるだけ。こちらの天野先生は数学の教育者だ。野球部には社会科の先生は関係しておらんので、そんなことを訊かれても答えようがないですな」
刑事は黙って頷いた。どう突いてみても青雲大附属野球部と大学紛争は今のところ無関係なのは明白だという表情である。対マスコミに関しては取材規制をしている青雲だが相手が警察となると規制はできない。常に警察の目が光っていると考えると織田も天野も気分は悪い。
その夜、酒は苦手な天野が珍しく織田の晩酌に付き合った。
「織田さんは選手達を、どう導こうとしてますか?私は悩んでいるんですよ。発端はベトナム戦争反対とか日米安保条約の反対。後は労働者の権利を守るとか、大学紛争に関わった学生は正しい主張をしてきましたよね。それを貫こうとしたらゲバ棒や爆弾にエスカレートしてしまった。長引く闘争に警察は次々に首謀者を逮捕して収束しようとしている。教師として、どうすればいいんですか?」
「天野さんは教師だから、そういうことに悩むんだろうな。俺は教師じゃない。野球部の監督だからな。連中に教えることは決まっている。バットは人間を殴るための道具じゃない。スパイクは相手を蹴るための道具じゃない。ボールは人を殺すための道具じゃないってことを教えるだけさ。野球ってのは凶器に囲まれてやるスポーツだからな」
「そこは分かりやすくていいですね。数学とか科学は学問ですが、その気になれば原子爆弾の作り方さえ学問になってしまうんです。私のような理数系の教師は時々、それが凄く怖くなってしまうんです」
「それは同じよ。天野さん。バットで人を殴るなって教えるのは逆に言えばバットで人を殺せるって教えていることになる。由良明訓なんて馬鹿高校でやっているうちは、そんなことも考えなかったですけどね。青雲の生徒は頭がいい。遠投能力を高めてやったら、その能力を機動隊に火炎瓶を投げるために使うかもしれない。そりゃ罪かもしれないけど、先のことまで考えちゃ何もできないですよ」
「織田さんは江口や矢吹が卒業してしまったら、この学校の監督は辞めるつもりでしょう?」
「いや…分からんなぁ。確かに、あの二人がいることで監督を引き受けた。だがねぇ、変なお世辞じゃなく俺は天野さん。あんたみたいな人は好きなんだよ。文学者とかと違って数学者ってのは正直でいいね!数式や因数分解は嘘つかないもんな!」
そう言うと織田は天野の肩をポンと叩いた。飲みなれない日本酒で顔を真っ赤にしながらシャックリをした。その様子が面白かったので織田は屈託なく笑っていた。