第134話 狂気の延長戦●「痛恨」

文字数 3,100文字

 この十六回表、青雲大付属の攻撃前に由良明訓ベンチでも土井監督に投手交替の打診はあった。しかし、せっかくやってきたピッチャーとしてのチャンスを里中が自分から放棄する気持ちはない。確かに身体は疲れ切っている。だが相手の江口は一回から投げている。江口への対抗意識からもマウンドを後輩には任せられない。
 「まだ投げられます」と力強く土井に答えた。里中の希望をあえて無視し、投手ではなく外野手として使ってきた土井には一種の引け目がり、強く投手交替を告げられなかった部分もある。監督と選手といっても二学年違いの元チームメイトという距離の近さが一つの甘さを生んでいたのかもしれない。
 里中にとって今でも青雲大付属打線でマークすべきなのは三番矢吹と四番江口だけである。黒沢、赤川、滝の三人はチームのレベルの底上げにはなっているが怖いバッターではない。内角のボールゾーンからストライクゾーンを横切るカーブを投げれば腰が引けてしまう。この攻め方を貫こうとした。
 赤川に対する一球目はセオリー通りのカーブである。里中のイメージでは、あわやデッドボールという軌道から外角低めへと大きく曲がりながら落ちていく。ところが、この打席に限って赤川の腰は引けていない。むしろボールを引きつけて打ちに来た。赤川はベンチで織田監督から「球威は落ちてきている」と言われたことが頭に残っていた。また外角に落ちてくるカーブを上手く引っ掛ければファースト二本松のエラーを誘えるという計算もあった。
 里中の右腕は知らぬ間に疲労が溜まっていたのだろう。このカーブは上手く曲がらず、内角高めのボール球になった。赤川はバットを引っ込め、そのまま見逃した。
 「デッドボール!バッター一塁へ」
 投げた里中もバッターボックスの赤川も唖然とした。赤川は主審に
 「いえ!当たってないです」と抗議した。しかしキャッチャーの田山は冷静だった。
 「いや…赤川君。当たっているよ。君のユニフォームの左肩をボールが掠ったんだ。審判はよく見ていた」
 主審も大きく頷き再び「バッターは一塁へ」と指示した。赤川としては釈然としなかったが、ともかく儲けもんである。小走りに一塁に向かった。
 次のバッター三番の矢吹は確認のためベンチを見た。織田のサインは「そのまま打て」だった。ノーアウト一塁のチャンスで四番江口に託すため送りバントのサインもあると思ったが、あえてアウトカウントを相手にあげる必要もないという判断だろう。
 一方、キャッチャーに田山はマウンドに行った。
 「やはり前のイニングからカーブは曲がりが小さくなってきているよ。シンカーやシュートの方が失敗はないかな。赤川って選手は足はあるがキャッチャーが俺でセカンドに馬場がいての盗塁のサインを出す織田さんじゃない。牽制球は要らないよ。もし二本松がエラーしたら傷口が広がるだけだ」
 「相変わらず野球には厳しいな。田山は」
 「うむ。割とワンサイドゲームで勝ち進んできたチームだからな。二本松は変にプレッシャーがかかっているだろう。あまり一塁方向には打たせたくないな」
 「そうか…俺が投げている時は土屋がセンターに入るんだな。一塁手が浜なら、まだ安心なんだが…」
 「そうしたら二本松が外野では、もっと危ない。この延長で無得点が続いて俺が歩かされたら、五番にベンチの誰かでは引き分け再試合だ。江口から打てる可能性があるのは二本松だ。準決勝までのように池田を五番に入れていれば二本松をベンチに下げるんだが…。後、お前には辛いかもしれないが二本松をピッチャーに戻し、一塁に浜。ライトに土屋。センターにお前が戻ればディフェンスは強化できる」
 「おいおい。田山。ここまで来て俺のボールを信用できないのか?」
 「投手を誰にするか?って話なら里中…お前が一番信用できる。浜では江口のところで危険すぎる。二本松は判らんが他のポジションを守らせておくよりも投げさせた方がましって言っているんだ」
 「ならば俺を信じてくれ」
 「判った。ただストレートは伸びがなくなってきている。カーブも今のコンディションじゃ不安だ。シュートとシンカーだけで行くぞ」
 「それでいいよ」
 里中は田山をホームに戻した。「少し俺は意地を張りすぎたか?」と里中は自問した。「田山の言う通り、もう一度、二本松をマウンドに送る方がいいんじゃないか?」そんな考えが脳裏を過ぎった。だが「迷うな」と自分に言い聞かせる。「このチームの本当のエースが俺ならば、このイニングで証明してやる!」と奮起し、三番打者矢吹に向かった。
 一方、打席の矢吹は赤川へとデッドボールから里中のカーブの切れがなくなっていることを悟っていた。「あいつの鋭いカーブはバントしても一塁方向へのファウルになる。今までの対戦経験で、里中が俺や江口への一球目に直球を投げることは絶対にない。明らかに自分よりボールの速いピッチャーとバッテリーを組んでいるキャッチャーの俺の目に自分のストレートは通用しないと思っているからだ。一球目は必ずシンカーかシュート。いずれにせよ外角から内角に変化するボールだ。赤川を走らせておけばワンナイトで得点圏。この試合の命運を江口に託す!」
 冷静に里中のフォームを見つめる。細くしなやかな右腕がムチのようにしなる。江口の力強いオーバースローとは対照的にクラシックバレエやフィギュアスケートを見ているような華麗な投球フォームである。放たれたボールは、まるで生命体のように、やや落ちながら内側へ曲がっていく。「やはりシンカーだ!」矢吹は斜めにバットを構え、そのシンカーの軌道を予知しながらバットを押し出すようにバントした。
 「そう来ると思ってた」
 誰かが叫んだ。声からすると里中だろう。俊足を駆使してボールを右手で取ると一塁の二本松に送球。アウトである。しかしランナーの赤川が二塁へ到達している。ワンナウトでランナー得点圏。迎えるバッターは四番ピッチャー江口。青雲大付属にとって二度目のチャンスである。
 里中はベンチの土井監督を見た。土井はジェスチャーで親指で「左」を指した。それから「分かっているか?」という表情をした。里中が頷くと「それでいい」という表情で頷いた。
 しかし、その一部始終を見つめていたのは三塁側ベンチで腕組みをしている青雲の織田監督である。織田には土井と里中のサイン交換が、どういう指示であるかを察知していた。「やれやれ。ようやく連中をここまで追い詰めたか…。計算通りよ。今の土井のサインは江口にレフトへ打たせろ…だろう。どっちみち今の里中に左バッターの内角を攻めるカーブやスライダーはない。下手に小便カーブになりゃホームランだ。レフトは小杉って野郎か?知らない選手だが、打順は九番。少なくとも打撃でスタメンに選んだ選手じゃない。レフト前ヒットでも赤川は三塁ベースに釘付けにできる外野手と睨んだ方がいい」と考えると江口にサインを出した。江口は少し意外そうな顔をした。なにせ監督からの指示は「右を狙え!」である。
 「甘いぜ!土井。本気で勝ちに行くなら、里中は降板。ピッチャー二本松で勝負。一塁に浜を入れて、ライト、センターには里中、土屋のどちらかでディフェンスは固まる。でなけりゃ二本松を引っ込めて守備の上手い控えに替える。接戦で勝つというのは、そういうことだ」と呟きながらも「それでも浜を、もう一度マウンドに上げないのは見事な采配だぜ。あいつのピッチングフォームは江口のコピー。うちの連中が合わせられるのを見抜いたな。優秀な教え子であることは確かだな」と心の中では少し喜んだ。
 
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

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