第16話 甲子園編●「波乱の開会式」
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1968年は全国高等学校野球選手権大会、すなわち夏の甲子園大会の開催が50回目に当たる記念大会であった。それゆえに前年度の三十校に対し四十八校が出場した。ちなみに返還前の沖縄県代表も含まれる四十八校が全て阪神甲子園球場で試合を行うスケジュールは甲子園大会が始まって以来、初の大掛かりな大会となった。ちなみに40回大会が四十七校、45回大会も四十八校が参加した大会であるが試合日程が長引くことを懸念し一部の試合は阪急西宮球場で行われている。今でも全国選手権には出場しているが甲子園に出場していない※元巨人軍の堀内恒夫等※と不平を言う野球部OBがいるのは、これらの大会で西宮球場でしか試合しか経験していない者がいるためである。
8月9日。まだ皇太子だった平成天皇明仁様より選手への激励の言葉がかけられ記念大会らしい厳粛なムードに包まれた甲子園球場だったが、参加校が多いだけに取材陣、ファン、学校関係者、プロ野球及び社会人野球の関係者が一斉に甲子園に押しかけ球場周辺は混乱状況に陥っていた。
マスコミの注目株としては静岡県代表・静岡工業高校。地元大阪代表・南波高校。東京代表・帝都学園ら甲子園常連校に次いで鳥取県代表・由良明訓高校を優勝候補とする下馬評が広がった。ダークホースとして岐阜青雲大学付属高校を推す記者も多かった。全てのアウトを三振で仕留めた一年生投手江口敏の名前は全国的に高まっていた。また高校野球とは縁遠い私立の名門進学校のお坊ちゃんエースというのも当時としては奇特なネタだったのだ。
そんな江口の前評判に猛烈なライバル意識を燃やしたのが強豪静岡工業の新原投手であった。新原も左腕の一年生投手であり、韓国籍の高校生である。父親の寵愛を受けて英才教育を受けてきた江口とは対照的に差別を受けながら悔し涙を流し続けた少年時代を背景に持つ。静岡工業への入学も当初は定時制への入学であり、努力家の新原に感銘を受けた教師達の計らいで全日制への編入試験を合格し、この甲子園に上り詰めてきた苦労人である。
ピッチングも対照的で三振の山を築いていく江口に対し新原は多少ヒットは打たれても粘り強く投げ抜くタイプだった。速球と磨きぬかれたスロー・カーブを使って打者を撹乱した。
「岐阜青雲の江口選手のことは正直に言いまして意識しています。彼も素晴らしいピッチャーだと思いますが、僕も負けません!」
スポーツ記事に掲載された新原のコメントは江口に対する嫉妬が感じられる内容だった。数年後に新原と江口は2人ともプロ入りしてチームメイトになるのだが、この時はまだ、そんな運命があろうとは知らなかったのである。
開会式が進み、一回戦の対戦が発表される。大会開始三日目の8月11日の第一試合が岐阜青雲大学付属高校と由良明訓高校の対戦が発表された。各マスコミは大騒ぎである。なにせ全てのアウトを三振で討ち取り、完全試合とノーヒットノーランだけで予選を勝ち進んできた江口投手とチーム打率7割。試合数の少ない鳥取県大会とはいえ打率8割7本塁打の田山。打率6割4本塁打の土井。打率2割5分ながら5本塁打の岩城。それに本塁打こそ打っていないが打率7割8盗塁の馬場という大会屈指の強力打線の由良明訓の対決は注目の一戦となった。
「ともかく高校生活最後の大会に悔いが残らないようにやるだけです」(土井)
「岐阜県のレベルを考えればマグレとは思えません。慎重にタイミングを取って、まずあの剛速球をバットに当てていくことを考えます」(田山)
「序盤は江口投手のボールをしっかり見ていく。後半のイニングでの攻略しか勝ちはないでしょう」(馬場)
「俺も天才だが江口も天才だ。しかし俺のバットで江口の剛速球は甲子園のバックスクリーンに叩き込んでやる!」(岩城)
「とても同い年のピッチャーとは思えない。僕が打たれたら負けるので責任重大です。後は土井先輩や田山を信頼して頑張ります」(里中)
およそ高校球児らしくないプロレスラーのようなコメントを残した岩城には記者団も失笑した。一方、青雲側は
「凄いバッターが揃ってますね。自分の力がどこまで通用するか試してみたいです」(江口)
「とても高校生同士の対決とは思えません。ここまで来てしまった以上は江口選手の足を引っ張らないように頑張ります」(小宮)
「1点でも先に取ってあげることが江口君への支えになると思います」(岡部)
「負けるとしたら敗因は僕でしょう。あれだけのピッチャーと対等に組めるキャッチャーになれていないからです。一年後、二年後が本当の対決だと思っています」(矢吹)
これまた高校生らしくない冷静なコメントを矢吹のみが残していた。