第176話 変革●「事故」 

文字数 2,622文字

 ピッチャーがマウンドに立ち左右のバッターボックの両方に打者二人がバットを構えるという変則的な練習はガイヤンツ二軍ピッチャーの「制球力アップ」に効果的な練習として本格的に取り入れられていた。元々は内野手の大西が江口敏の「打者の内角に投げられない」症状を克服させるために始めた練習だったが、長尾二軍監督は、この練習を高く評価し二軍登録中の十二人のピッチャーに一日三十分、この練習をノルマとした。
 ホームベースの幅はもちろん。ストライクゾーンの広さは変わるものではないが、人間の視覚などというものは感覚的なもので、ピッチャーの立場からすると左右二人の打者が同時に構えるとホームベースまで格段に小さくなったような錯覚を起こす。投げにくいこと、この上ないのだが、この練習の後に通常通りに打者が左右どちらか一人になると、それまでよりもストライクゾーンが一段と広くみえた。あくまでも錯覚ではあるが、ピッチャーにとっては、この錯覚が大切なのだ。二軍戦でも不調のピッチャーが見違えるように良いピッチングを見せた。
 「大西!お手柄だ」考案者の大西は長尾に感謝された。「いえ。俺が投手出身なんで、こういう練習方法を思いついただけです」と答えた大西だったが、その内面はモヤモヤとした感覚に包まれていた。大西の目的である江口の欠点克服は一向に効果を見せない。それどころか大西の目には本来の江口の持ち味であるスピードとコントロールの両立が崩れ、コントロールを意識すればひょろひょろの棒球を投げ、スピードを意識すれば暴投するようになってきている。
 また都合の悪いことに、このペナントレース終盤になり、江口と同室の淡谷が一軍に昇格してしまったのである。河村監督の「ここ一番で左の代打が欲しい」という要望から淡谷が選ばれた。人の良い江口は「淡谷君。よかったね。一軍で頑張ってくれよ」等と言っている。大西も型どおりに淡谷を応援したが、内心は「先を越された」という焦りが残る。自分と同じように焦りを見せない江口の態度にイライラした。
 一年目のルーキーとしては先輩方に練習相手を頼むのは忍びない。そこで大西が一打席づつ交互に左右のバッターボックスに立つ練習方法に切り替えた。キャッチャーの矢口も賛同した。矢口も「難しい外角低めに速球も変化球もズバッと決まる。俺はミットを動かさないでいた。高校卒の新人で、こんなピッチャーはいない。だが外角一辺倒ではプロのバッターは討ち取れない」と内心では江口を高く評価していたのであった。
 二人は江口に「得意の外角を活かすにはバッターの内角も攻められるようにならないと」と諭して、練習を開始した。大西が打席に立つと、やはり江口は外角ばかりに投げる。それでも球速とコントロールは打者二人の特殊練習の頃より、本来の剛速球に戻っている。ただし大西の内角を抉るようなボールは一向に投げられない。
 「おい!江口。お前も、そうだろうが俺だって高校時代はピッチャー四番だったんだ。内角外れのボールを当てられるほど鈍臭いバッターじゃねぇぞ!」
 マウンドの江口に、こうやって檄を飛ばす。江口の顔は真剣そのものだ。たぶん必死の思いで内角を狙っているのだろう。大西は「思ったよりも重症だな」と思った。ストレートもカーブもスクリューボールも、きれいに外角には決まっている。投手を断念し内野手転向を命じられた大西にとっては羨ましいほどの江口の才能である。この天才ピッチャーを欠陥投手のまま終わらせないために何か方法はないか?と考えた。
 人間には、やろうとして出来なくても、ついやってしまったら出来てしまうことがある。例えば自転車に乗ることだって同じだ。こんな不安定な乗り物を乗れる訳がないと思っていると、いつまでも乗れない。誰かに支えてもらって漕ぎ始め、知らない間に、その手が離れていて自転車を自力で乗れた時。その自信から自転車に乗れるようになる。鉄棒の逆上がりなども同じようなきっかけで出来るようになることがある。
 大西は「江口が内角にも投げたという事実を作ってしまえば、それをきっかけに恐怖症のようなものを克服できる」と考えた。右打ちの大西は当然、右打席に入っているが、江口が投球モーションを起こし、左腕を振り始めたのを見極めてから自分が左打席に飛び移るという策を思いついた。現実の試合では反則だが、練習ならば構わない。いくら江口でも投球モーションを起こしてから打席を飛び移るとは考えてないだろう。次のボールも右打者への外角に行くだろう。それは左打者の内角攻めになる。
 大西は、すぐに実行に移した。江口の左腕が彼の頭上に見えた。そこから力強く左腕が振れていく、左手からボールが離れる直前の一瞬。大西は左打席に飛び移り、バットを構えた。
 「あぁ!」
 悲鳴に似た声が響いた。江口である。捕手の矢口が「無茶な!」と叫んだ。江口のボールは完全に手元の狂った暴投になった。
 一方の大西は普段からスイッチヒッターの練習をしている訳ではない。小学生の頃、遊びで左打席で打ってみたことがあるという程度の経験しかない。端から見るより右打席と左打席の視界は大きく違う。大西なりに、この一球が江口にしては珍しい暴投になったことは感じ取った。しかし、右打席の経験しかない大西は危険球を左肩側。すなわちホームベースから離れる方向に避ける癖がついている。左打者であれば右肩側に避けなければならないのに逆方向に動いてしまったのだ。
 大西はホームベース上に倒れ込むような形になった。江口が慌てて悲鳴を上げた割にはボールは、さほど暴投にはなっていない。内角のストライクコースにストレートが決まるはずだった。
誰かが「げっ!」と声を出した。「あっ!馬鹿!大西!逆だ!」と叫んだのはキャッチャーの矢口だ。
 ガツン…鈍い音がして大西が倒れた。ヘルメットが脱げて大西の即頭部に江口のストレートが直撃していた。右耳からダラダラと血が流れる。
 「ドクター」と叫んだのは長尾二軍監督だった。江口はマウンドに蹲りブルブルと巨体を震わせている。守備練習をしていた選手。ブルペンのピッチャー。ガイヤンツ二軍の全員が集まってきた。血まみれの大西は顔を上げ
 「江口!これでいいんだ。こんなもんでお前は終わっちゃいけないんだ。本気で野球をやってりゃ練習中の事故なんか当たり前だ!」
 と叫ぶと担架に乗せられ、医務室に運ばれて行った。
 
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

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