第95話 若者たちの敗北●「見せ球」
文字数 3,065文字
「俺たちを舐めてるんじゃないか?滝なんて一年生ピッチャーなんか先発させやがって!甲子園のヒーロー江口は温存かよ!」
「いや…はっきりした新聞記事じゃないが夏の甲子園の準々決勝で完全試合を達成したはいいが、その時の連投で江口選手は肩か肘を壊しているそうだ」
「じゃあ、これからは打者に専念するってことか?」
「そこまでは書かれてなかったなぁ。今は治療中だからファーストしか守れないってことなんだろう」
「もったいない話だが俺たちにとっちゃチャンスだぜ!滝なんて一年生なら打てる」
一回の表のマウンドに上がった滝は初登板だが、中学時代は野球部キャプテンを務めながら学年十位以内の成績を収める秀才。得意のスピードのあるスライダーを見せ球にして、コントロールされたストレートを低めに集め藤枝西打線を翻弄した。一塁守備の江口から
「いいぞ!右のエース!」
と声がかかると礼儀正しくお辞儀をした。織田監督の指導を忠実に守っている。軟式野球から硬式野球に変わったことで威力を増したスライダーだが、鋭く曲がるため主審によってはボールとコールされることがある。従ってスライダーは決め球にせず早いカウントで打者を幻惑させるために使え!という指示である。滝自体はスピードもコントロールも並のピッチャーだが低めにストレートを投げさせる練習だけを徹底した。
織田の算段では審判団は江口よりも滝を格下に見ている。スピードもコントロールも江口ほどではないと評価されているだろう。しかし丁寧に低めを狙うコントロールさえ見せれば、このピッチャーはコントロールがいいと評価をされる。多少ボール球になりそうなスライダーでもストライクにジャッジして貰えば儲けものという計算だ。
「よし!ナイスピッチ。次の回も、この調子でいこうぜ」
「キャプテンもナイスキャッチです」
キャッチャーの矢吹とのコンビネーションも上々に見えた。新キャプテンになった矢吹はグラウンドでは笑顔を絶やさないように心がけた。江口が投げない秋季大会で一つでも多く勝利を挙げるには悲壮感を出さないことである。明るく振舞えば振舞うほど不安は矢吹の心の中で大きく膨れ上がっていく。卒業した小宮に比べて滝は良いピッチャーではある。しかし甲子園出場のレベルではない。
由良明訓の里中はもちろん、同じ一年生の浜と比べても滝では物足りなさを感じる。森沢高校の大田黒にしても同じだが、甲子園で話題になるピッチャーにはピッチングへの執念。スピードやコントロール以上の迫力がボールにあるものだ。また、まだ滝にはマウンドを守る者の重圧が本気に感じていないと矢吹は思った。
今のところ上手くいっているが、滝がスライダーを決め球に使えないことが相手チームにバレたら、あの程度のストレートは狙い打ちされる。敗戦自体は矢吹にとって怖くない。しかし滝が打ち込まれて敗戦が濃厚になった時に江口がマウンドに上がろうとすることだ。暢気で亡羊とした江口だが勝負への執念だけは強く持っている。
秋季大会を前にした練習では江口は一切ピッチング練習をしていない。打撃練習と一塁守備の練習ばかりに終始した。江口本人の他には織田、天野、矢吹だけが故障は方便であり、野球部員だけでなく岐阜青雲大学附属高校全体を騙すための嘘である。全ては江口の父親が無傷で自分の息子を東京ガイヤンツに入団させるためのストーリーでもある。
治療という名目で野球部の練習も休むことがあるが、秘密裏にノンプロ関係者に混じってピッチング練習に江口は加わっていたのである。中学時代から不良仲間に関わり「大人達の裏事情」に振り回されることに慣れている矢吹にとっては渋々、納得できる。織田が折衷案として最後の夏の大会は全力で戦わせる条件を呑ませたのも矢吹には心地よかった。
しかし江口は純粋な高校生だ。投げられない分、打撃練習に熱は入っている。同学年で高校通産本塁打を競い合えば由良明訓の田山、岩城に次ぐ三位の記録を持つスラッガーでもある。しかし、それで江口本人が満足しているとは思えない。捕球が大半で送球の機会の少ない一塁手というポジションでも江口は時折、目の覚めるような速球で送球することがある。三塁手になった黒沢が
「江口先輩。勘弁してくださいよ!俺らキャッチャーミット嵌めて三塁守ってませんよ。グローブじゃ痛くて痛くて…」
「ごめん!ごめん!ついムキになっちゃって」
笑って謝る江口の笑顔には屈託ないものに見える。しかし投げたくて投げたくてしょうがないという江口の潜在意識が、全力での三塁への送球に繋がったとも見えた。
秋季大会前にマネージャーの内川亜紀が矢吹に訊いたことがある。
「ねぇ。私には江口君が怪我をしているように見えないんだけど?本当なの?」
「怪我ではなく故障箇所があるという診断だからな。素人には判らんよ」
「走ったり、打ったり、守ったりしているのを見ていると江口君は、どこも怪我しているように見えないのよ。故障箇所って言っても外傷がないだけで怪我には怪我でしょ?」
これにはさすがの矢吹も少々困惑した。
「あのさぁ。ガイヤンツの一番バッターで柴山選手っているの知ってる?」
「知ってるわ。足の速い赤手袋のハンサムでしょ?」
「そう。でも、あの柴山選手が高校時代は甲子園の優勝投手だっていうのは内川は知らないだろう?」
「それは知らなかった!たまにお父さんと一緒にテレビでナイターを観るけど柴山選手の外野から凄いボールを投げるけど、もともとピッチャーなのね!」
「うん。不思議なのは、あれだけ凄い外野からの返球ができるのに柴山さんは肩を壊してピッチャーを断念したんだよ。これは江口に聞かないと分からないけど、それだけピッチャーの投球と他のポジションの選手の送球じゃ違っているんだ」
「江口君に訊いても江口君自身が分かってないんじゃないかしら?」
「どういうことだ?」
「話してなかったけど、私のお父さんって外科医なのよ。小さいけど入院施設もある病院で若いお医者さんも、うちに住み込んでいるの。だから私も心配して江口君に困ったら、うちに来てって言ったんだけど…なんかはっきりしないのよ。肩が強張っているだけだから…とか…肘が変なんだ…とか…手首を強く使うと痛む…とか。一体、どこが悪いのか?江口君が分かってないみたい。生意気なようだけど、そんな患者さんって見たことないわ。誰でも肩なら肩が痛い。肘なら肘が痛いって言うもの」
矢吹は内心「江口らしいや」と思ったものの「あのバカ!」と怒り、そして怒りと同時に笑いがこみ上げてきた。
「ホント…江口らしいや…。バカ正直で…いや…バカだな。バカそのものだ。そんなバカが俺は好きで好きでしょうがないんだよ。そんな俺も大バカだな。そんな俺にひっついてマネージャーなんかやってる内川も大バカ女だ」
そんな俺にひっついて…という矢吹の言葉に亜紀は真っ赤になった。
「やだ…矢吹君…私は…」
「いいじゃねぇか別に。この高校に来て良かったよ。江口と出会って、中学の時には口もきかなかった内川と、こうして喋っている。嫌われ者の俺が野球部のキャプテンなんかやっている。江口の故障のことは黙って内川も信じていてくれ」