第196話 栄光の片隅で●「道場入門」

文字数 2,993文字

 里中繁雄が元ガイヤンツ打撃コーチ荒井の道場に通い始めて一ヶ月が過ぎた。コーチ勇退後も合気道、野球共にトレーニングは欠かせていないというだけあって四十五歳を過ぎた今でも逞しい体つきをしている。普段は温厚な人物で「私は野菜が嫌いでね。肉ばかり食べていると太りやすい。それではいかんと思って稽古だけは辞めないのだ」というのが口癖である。
 荒井の自宅には二十畳ほどの広い部屋があり、この部屋から榎、司馬が育っていった。荒井は全ての筋肉の動きを確認するために里中に短パンだけの姿にさせシャドーピッチングを行わせる。フォームが崩れると剣道用の竹刀で容赦なく、その箇所を突いた。当初、荒井が里中の股間ばかり突くので「このコーチは男色趣味なのではないか?」と気持ち悪く思ったが、そういう訳ではなかった。「これはバッティングでもピッチングでも同じことだ。君の身体を地面から垂直に錘を垂らしたとする。君の頭と睾丸がズレてしまう時はバランスを崩している時だ。司馬君でも長岡君でも改心のホームランを打った時。すなわちバットとボールが当たる瞬間だね。この瞬間に睾丸の真上に頭が乗っている。もちろん私の門下生だけではなく、ロビンスの大本君。リンクスの村野君。皆、快打の瞬間には睾丸のまっすぐ上に頭があるはずだ」と言われて納得した。
 時折、冗談も言う人物で「では里中君。女性のスポーツ選手の場合は、どこに当たるかな?」などと聞いてくる。「膣ですか?」と答えると、笑いながら「正解だよ。さては里中君は童貞ではないな。もし童貞のまま、もやもやと妄想していて野球道に打ち込めないのは、よくない。これも道場の特訓のうちだと言って吉原にでも連れていこうと思っていたが、君には、その必要はなさそうだ」と豪快に笑った。
 また「こういう場所も行くだけ行っておいた方がいい」とキャバレーに連れていかれたこともあった。荒井はだんごっ鼻で下膨れ、お世辞にも美男子とは呼べない中年男である。キャバレーの女の子が里中ばなりにチヤホヤするので「こういう所も君には必要なかったな。だが、せっかく素晴らしい素質を持ちながら変な女と出会って、その素質を棒に振る選手も多い。婚約者がいるとか、恋人がいれば平気というものではない。一軍の主力選手になれば遠征も増える。そんな時は金を払えばいい女とだけ付き合いなさい。キャバレーやトルコが一番良い」等と変な心得を教えてくれた。
 「合気道という武道は相手からの攻撃に対して気の流れで対応する技だ。その為、ピッチャーが投げるボールに反応する打撃には応用しやすい。いかに最小限の力で瞬間的な反動力を得る。ここまではバッティングもピッチングも大きく変わるものではない。最初、君を見た時に、これは合気道には向いている選手だと思った。私の師匠は小柄な老人だったが現役の関取を片手で投げ飛ばした。腕力のある選手は力で、どうにかしようとする。それでは限界がある。自分の力より強い力で押し込まれた時に力負けしてしまうのだ。分るかね?」
 練習の後には、この様な禅問答じみた話が始まる。初日こそ、時間が遅くなり翌日の朝からのトレーニングがきつくなると思っていた里中だが、徐々に荒井に心酔し始めていた。
 「ガイヤンツに入団して司馬さんや長岡さん、堀本さんなんかの存在感には驚きました。これがプロ野球の世界か?という感じでしたね。一日も早く認めて貰えるようにアピールしなきゃ…って焦りました。まずは俺は足の速さだけなら一軍のスター選手にも負けないだろうと自信があったんです。ガイヤンツの俊足コンビ、芝山さん真田さんが俺を”こいつやるな”って感じで見ている。長岡さんは流石に、なかなか早いなと思いましたが、俺は勝てると思った。ところが司馬さんが鈍足なのに驚いたんです」
 「ほう。他の選手のことをよく見ているね。体形からすると司馬君は、もっと足が速くなってもいい。同じホームランバッターでもタイタンズの近井君のような肥満体形じゃない。もちろん私がコーチでいた頃にも陸上競技出身のランニングコーチを呼んで司馬のランニングフォームを改造してもらったんだが、それでもタイムは縮まらない。よくあれで早田実業の野球部でやってこれたと不思議に思ったほどだ」
 「他の基礎練習を見ても、司馬さんは握力、垂直飛び、背筋力等。二軍選手より体力測定の数値が悪いんですね。ところが一本足打法から繰り出すホームランは他の選手を圧倒している。俺が目指すのは長岡さんのような力と柔軟性を併せた選手じゃない。まぁ…柔軟性とかスピードは俺にもあると思うんですけど、圧倒的なパワー不足は高校時代から悩んでいるんです。それを司馬さんのように技で補えたら…打者に出来たことを投手に置き換えたら…そんな気持ちで荒井先生を紹介してもらったんです」
 荒井は口元に笑いを浮かべながら里中の話を真剣に聞いている。打撃フォームである一本足打法を、どうやって投球フォームに応用するか?まだ悩んでいた。司馬の一本足打法は完成されていいるが他の選手が真似ても上手くいくものではない。実際、現在コンドルズに入団している養子の荒井尭を右の一本足打法で育てようとしたが、尭が体得したとは言えない・
 「そう言えば一年前に一本足打法を投球フォームに取り入れたいと言って、私を訪ねてきたピッチャーがいる。スターズの田村投手だよ。まぁリーグは違うが君も知っているだろう?」
 「スターズの田村さん!去年辺りからチームを代表するピッチャーになっていますね。田村さんも同じことを考えていたのですか?」
 「うん。オフに家を訪ねてきてね。司馬選手にやった特訓を俺にもやってくれ!と言うんだよ。スターズも私にとっては後輩だからね。無下に断れない。だが打撃一本でやってきた私にピッチャーは面倒見れないと言って断った。だが田村もチームでは昭和生まれの明治男と呼ばれる頑固者。じゃあ特訓は自分でやるから、方法だけでも教えろ!と言う。私も根負けしてね。この部屋で、私が司馬君に教えた基礎的な練習だけ教えた。彼が、その後、どういう練習をしたか?は知らないが今年はオールスターにも選ばれるピッチャーに成長した。正直、私もホッとしているんだよ。誰でも一本足打法をやれば司馬のように本塁打を量産できるか?というと、そうでもない。むしろフォームを崩してスランプに陥ってしまう打者もいる。田村君にしてもだ。下手に司馬君の真似をして、それまでのピッチングを駄目にしてしまう可能性もある。司馬君が大成したのは司馬君の身体特性と一本足打法が合ったからに過ぎないのだよ」
 里中にとって興味深かったのは同じピッチャーとして一本足打法をフォームに取り入れようとする人物が自分の前にいたことだった。「スターズの田村さんか…」と、もう一度呟いた。それを見た荒井は
 「何よりも自分の目で確かめてみるのが一番だ。私は現役選手時代はスターズ一筋で来た。今でも首脳陣と付き合いがある。次に田村が先発する日を私が聞きだそう。ガイヤンツの若手ピッチャーが研究をしたい…と言ったら断られるだろうが、今の私は一評論家の身だ。今シーズン急成長中の田村を観ておきたいと言えば教えるはずだ。その時に君も来ればいい。安心しろ、中川コーチや黒岩監督には私から事情を説明しておくよ」
 
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

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