第196話 栄光の片隅で●「道場入門」
文字数 2,993文字
荒井の自宅には二十畳ほどの広い部屋があり、この部屋から榎、司馬が育っていった。荒井は全ての筋肉の動きを確認するために里中に短パンだけの姿にさせシャドーピッチングを行わせる。フォームが崩れると剣道用の竹刀で容赦なく、その箇所を突いた。当初、荒井が里中の股間ばかり突くので「このコーチは男色趣味なのではないか?」と気持ち悪く思ったが、そういう訳ではなかった。「これはバッティングでもピッチングでも同じことだ。君の身体を地面から垂直に錘を垂らしたとする。君の頭と睾丸がズレてしまう時はバランスを崩している時だ。司馬君でも長岡君でも改心のホームランを打った時。すなわちバットとボールが当たる瞬間だね。この瞬間に睾丸の真上に頭が乗っている。もちろん私の門下生だけではなく、ロビンスの大本君。リンクスの村野君。皆、快打の瞬間には睾丸のまっすぐ上に頭があるはずだ」と言われて納得した。
時折、冗談も言う人物で「では里中君。女性のスポーツ選手の場合は、どこに当たるかな?」などと聞いてくる。「膣ですか?」と答えると、笑いながら「正解だよ。さては里中君は童貞ではないな。もし童貞のまま、もやもやと妄想していて野球道に打ち込めないのは、よくない。これも道場の特訓のうちだと言って吉原にでも連れていこうと思っていたが、君には、その必要はなさそうだ」と豪快に笑った。
また「こういう場所も行くだけ行っておいた方がいい」とキャバレーに連れていかれたこともあった。荒井はだんごっ鼻で下膨れ、お世辞にも美男子とは呼べない中年男である。キャバレーの女の子が里中ばなりにチヤホヤするので「こういう所も君には必要なかったな。だが、せっかく素晴らしい素質を持ちながら変な女と出会って、その素質を棒に振る選手も多い。婚約者がいるとか、恋人がいれば平気というものではない。一軍の主力選手になれば遠征も増える。そんな時は金を払えばいい女とだけ付き合いなさい。キャバレーやトルコが一番良い」等と変な心得を教えてくれた。
「合気道という武道は相手からの攻撃に対して気の流れで対応する技だ。その為、ピッチャーが投げるボールに反応する打撃には応用しやすい。いかに最小限の力で瞬間的な反動力を得る。ここまではバッティングもピッチングも大きく変わるものではない。最初、君を見た時に、これは合気道には向いている選手だと思った。私の師匠は小柄な老人だったが現役の関取を片手で投げ飛ばした。腕力のある選手は力で、どうにかしようとする。それでは限界がある。自分の力より強い力で押し込まれた時に力負けしてしまうのだ。分るかね?」
練習の後には、この様な禅問答じみた話が始まる。初日こそ、時間が遅くなり翌日の朝からのトレーニングがきつくなると思っていた里中だが、徐々に荒井に心酔し始めていた。
「ガイヤンツに入団して司馬さんや長岡さん、堀本さんなんかの存在感には驚きました。これがプロ野球の世界か?という感じでしたね。一日も早く認めて貰えるようにアピールしなきゃ…って焦りました。まずは俺は足の速さだけなら一軍のスター選手にも負けないだろうと自信があったんです。ガイヤンツの俊足コンビ、芝山さん真田さんが俺を”こいつやるな”って感じで見ている。長岡さんは流石に、なかなか早いなと思いましたが、俺は勝てると思った。ところが司馬さんが鈍足なのに驚いたんです」
「ほう。他の選手のことをよく見ているね。体形からすると司馬君は、もっと足が速くなってもいい。同じホームランバッターでもタイタンズの近井君のような肥満体形じゃない。もちろん私がコーチでいた頃にも陸上競技出身のランニングコーチを呼んで司馬のランニングフォームを改造してもらったんだが、それでもタイムは縮まらない。よくあれで早田実業の野球部でやってこれたと不思議に思ったほどだ」
「他の基礎練習を見ても、司馬さんは握力、垂直飛び、背筋力等。二軍選手より体力測定の数値が悪いんですね。ところが一本足打法から繰り出すホームランは他の選手を圧倒している。俺が目指すのは長岡さんのような力と柔軟性を併せた選手じゃない。まぁ…柔軟性とかスピードは俺にもあると思うんですけど、圧倒的なパワー不足は高校時代から悩んでいるんです。それを司馬さんのように技で補えたら…打者に出来たことを投手に置き換えたら…そんな気持ちで荒井先生を紹介してもらったんです」
荒井は口元に笑いを浮かべながら里中の話を真剣に聞いている。打撃フォームである一本足打法を、どうやって投球フォームに応用するか?まだ悩んでいた。司馬の一本足打法は完成されていいるが他の選手が真似ても上手くいくものではない。実際、現在コンドルズに入団している養子の荒井尭を右の一本足打法で育てようとしたが、尭が体得したとは言えない・
「そう言えば一年前に一本足打法を投球フォームに取り入れたいと言って、私を訪ねてきたピッチャーがいる。スターズの田村投手だよ。まぁリーグは違うが君も知っているだろう?」
「スターズの田村さん!去年辺りからチームを代表するピッチャーになっていますね。田村さんも同じことを考えていたのですか?」
「うん。オフに家を訪ねてきてね。司馬選手にやった特訓を俺にもやってくれ!と言うんだよ。スターズも私にとっては後輩だからね。無下に断れない。だが打撃一本でやってきた私にピッチャーは面倒見れないと言って断った。だが田村もチームでは昭和生まれの明治男と呼ばれる頑固者。じゃあ特訓は自分でやるから、方法だけでも教えろ!と言う。私も根負けしてね。この部屋で、私が司馬君に教えた基礎的な練習だけ教えた。彼が、その後、どういう練習をしたか?は知らないが今年はオールスターにも選ばれるピッチャーに成長した。正直、私もホッとしているんだよ。誰でも一本足打法をやれば司馬のように本塁打を量産できるか?というと、そうでもない。むしろフォームを崩してスランプに陥ってしまう打者もいる。田村君にしてもだ。下手に司馬君の真似をして、それまでのピッチングを駄目にしてしまう可能性もある。司馬君が大成したのは司馬君の身体特性と一本足打法が合ったからに過ぎないのだよ」
里中にとって興味深かったのは同じピッチャーとして一本足打法をフォームに取り入れようとする人物が自分の前にいたことだった。「スターズの田村さんか…」と、もう一度呟いた。それを見た荒井は
「何よりも自分の目で確かめてみるのが一番だ。私は現役選手時代はスターズ一筋で来た。今でも首脳陣と付き合いがある。次に田村が先発する日を私が聞きだそう。ガイヤンツの若手ピッチャーが研究をしたい…と言ったら断られるだろうが、今の私は一評論家の身だ。今シーズン急成長中の田村を観ておきたいと言えば教えるはずだ。その時に君も来ればいい。安心しろ、中川コーチや黒岩監督には私から事情を説明しておくよ」