第91話 二度目の夏編●「暗躍開始」
文字数 3,007文字
青森県代表森沢高校の大田黒投手がテレビのレポーターの質問に力強く答えている。明訓の里中と女性人気を二分し「殿下」と呼ばれている。新聞は「甲子園大会決勝戦はハンサム対決」と銘打って売り上げを狙ったが、結果は芳しくはなかった。
岐阜青雲大学付属高校野球部員は、すぐには帰らず一日だけ宿に滞在した。過剰なまでに取材したがるマスコミ対策である。一試合で六失点は江口敏にとって屈辱の記録になった。そこに敗戦のコメントを求めるマスコミの質問責めに合わせたくないという天野、織田の配慮もあった。
唯一、江口への面会を許されたのは江口の父の旧友である八木という人物だけである。ぼんやりとテレビの由良明訓高校対森沢高校の決勝戦を眺めている江口の横に八木は座った。
「八木さん。お久しぶりです。昨日は酷い負け方をしてしまいました。準決勝の大舞台で…どうしても思いっ切り投げられなくて…」
近くにいた矢吹が慌てて江口を庇った。
「いや…俺がもっと、あの池田っていう一年生を警戒しなきゃいけなかった。あの小さな身体と子供みたいな顔で、すっかり油断しちまった。あの由良明訓で二番に抜擢される一年生。そこを油断しちゃいけなかったんだ」
八木は矢吹とは初対面だったが、噂通りの好漢だと思った。
「敏君も、矢吹君も、僕は昨日の敗戦の弁など聞きに来た訳ではないんだ。前日に完全試合なんて凄い記録を達成して昨日も由良明訓相手に完投勝利なんて出来っこない。例えプロの一流投手。例えば金山投手でも完全試合やノーヒットノーランの次の試合では負けている。あの大投手でさえ、そうなのだから高校生の君には無理だ。予選でチームの力量差があれば出来たかもしれないが、甲子園となると難しいよ」
テレビでは序盤から岩城、馬場、田山ら由良明訓の強力打線は大田黒投手を捉え、先制点を挙げていた。
「本当のことを言おう。織田監督と天野先生も集まってください。僕は今日、東京ガイヤンツの河村監督から頼まれて敏君を訪ねてきた。河村監督の意向としては敏君。来年のドラフト一位指名を君で決めているということだ」
打ちひしがれた江口敏の表情が変わった。またしても由良明訓打線を抑えられなかった自分に、そのような評価が下されているとは考えもしなかったのだ。しかし八木の話は意外な方向へと進んでいったのである。
「誤解のないように聞いて欲しい。これは僕個人の意思ではない。河村監督の考えなのだ。ちょっと極端な意見だが、河村監督及び東京ガイヤンツは、もう甲子園や予選で江口敏にピッチャーをやって欲しくないのだ。幸い一年生に滝君という好投手も入部した。秋季大会は滝君をエースにして君にはファーストでも守っていて欲しいという要望だ!」
「なんですって!それじゃあ青雲大付属は甲子園出場さえ危なくなる!」
反射的に江口は八木に食ってかかろうとした。監督の織田が江口を羽交い絞めにして、ようやく止めた。
「そうか…そういうことか…。汚ぇとも思ったが、さすがは盟主ガイヤンツ。そして史上最強の河村監督だ!まぁ江口も矢吹も冷静に聞け!確かにお前達には後二回のチャンスはある。選抜そして最後の夏だ。だが、そこで江口が優勝投手にでもなってしまったらドラフトじゃ他球団との競合になる。ガイヤンツが江口を単独指名することは難しい。まぁ田山三太郎と複数指名を分け合うだろうよ。しかし江口が野手転向となれば十一球団が田山の一位指名だ。残ったガイヤンツは悠々と江口を一位指名できるって作戦だな」
「さすがは織田監督だ。素晴らしい洞察力。加えてガイヤンツではスイッチヒッターの芝山、ホームラン王の司馬は甲子園の優勝投手だ。しかし育ち盛りの高校生に連投を強いる甲子園大会のスケジュールでプロ入りした時には柴山も司馬もプロで通用する投手ではなくなっていた。肩、肘、手首…への負担は多くの甲子園出身投手がプロで大成しない原因を作っている」
八木の話に織田も同意した。
「俺も見たことはないが河村さんこそ現役時代は打撃の神様と讃えられた強打者だが、入団時にはピッチャーだったそうだな。河村、柴山、司馬は打者として成功したからいいものの、その保障はない。まぁ江口なら、そこそこのバッターになるだろうけどな。まぁ俺も高校生に連投させる甲子園大会の日程には常々疑問は抱いていたぜ」
ここまでの話を聞いて江口が口を挟んだ。
「分りました。河村監督の俺に対する配慮や気持ちは光栄です。ですが八木さん!ガイヤンツは田山選手にも興味はあるんじゃないですか?」
「田山君ね。確かに興味がないことはないだろうね。ただ田山君をガイヤンツが獲得したからといって、どこを守る?正捕手の林さんは健在。他にも吉川、矢上と一軍クラスのキャッチャーが控えている。彼の鈍足では外野手は無理。一塁には司馬がいる。長岡よりも四歳年下の司馬は、まだまだ主力打者として君臨するだろう。むしろ長岡選手の後釜に岩城君を狙っているのが本当のところだ」
「はぁ…なるほど。ところで八木さん。八木さんはガイヤンツ以外の球団のことは分るんですか?」
「うん…まぁ私はガイヤンツの人間ではなく、プロとアマチュアの橋渡しをする立場だから、他球団のスカウト陣との情報交換はしているが?なんだね?」
「いやぁ…中京ドアーズは僕のことを、どう思っているのかな?と思って」
「中京ドアーズ?そりゃまぁ江口君の獲得は考えていると思うが…君はドアーズのファンなのかい?」
「一番、家から近い球団ですからね。愛着はあります。それに中京ドアーズって二位が多いじゃないですか?変な夢かもしれないけど僕がドアーズに入団してガイヤンツの連続優勝を阻止できたら、いいなぁって思うことがあるんです。僕は今の状況って好きなんですよ。もし僕が由良明訓の選手で甲子園で優勝してたとして、今ほど頑張れないんじゃないかな?って思うんです。僕が投げて田山君がキャッチャーとして受けてくれたら面白いけど、矢吹君が一生懸命にキャッチャーになってくれた。それが嬉しいんです」
織田と八木は顔を見合わせて笑った。
「俺は江口って選手を誤解してたかもしれん。父親に英才教育を受けたお坊ちゃん野球選手だと思っていた。だがなぁ今の話を聞いて江口の内なる闘志を知った気がしたぜ。しかしガイヤンツのような球団が江口を高く評価したことは真剣に考えておけ。それに残りの高校生活を完全に一塁手に転向させるってのは極端過ぎる話だが、秋季大会は滝に投げさせる。明訓の連中の真似する訳じゃないが浜と里中で投げ分けるという起用法は理想だ。もちろん際どい試合ではリリーフに送るぞ」
織田は監督らしく八木に宣言した。
「八木さんよぉ。ここはこの折衷案で引き下がっちゃくれないか。江口がガイヤンツに憧れているってんなら話は別だが、こいつの希望はドアーズだったりする訳だ。まだ十七歳の少年の夢を大人の事情で奪っちまうってのは、あんまりな話じゃねぇか?」
八木は笑いを堪えながら、頷いた。テレビでは八点差をつけて森沢高校を下し、由良明訓高校の三大会連続甲子園制覇を映し出していた。