第155話 覚醒と崩壊●「オトナの野球」
文字数 2,909文字
他の試合では全米選抜に十点差以上つけられての惨敗であったため、この一戦は後々まで語られる伝説の試合であり、日本のプロ野球が大衆娯楽として芽生える歴史的な一戦であったと言える。全丸大ナインは、この草薙球場でノンプロ最強の明治石油との練習試合に臨む。里中繁雄。加藤、中間ら高校卒の新人選手にとっては初めての遠征である。
里中は先発を告げられている。高山はノンキに「俺は出番なさそうだから静岡の刺身にビールをやらしてもらうわ」と昼食中にビールをつけていた。ノンプロのベテラン選手は、こんな感じで、地方遠征の楽しみと言えば、その土地の美味い食べ物。東京遠征では夜の街が目当てのようなところがある。高校時代には、なかった感覚である。
太平洋ドルフィンズのエース松平を輩出した明治石油は都市対抗常連の強豪チームである。マイカー族の増加によるガソリン景気は良く、選手も集まっている。グラウンドで試合前の練習を見ているとプロ野球選手と大差ない体格のメンバーが揃っていた。
もっとも明治石油側も全丸大の情報は持っていて、主力メンバーは先発投手里中を注視していた。外野手兼投手、奇跡の五連覇は青雲大付属に拒まれたが春夏四連覇を達成した最強チームの主力選手である。投球練習を始めて数球目に相手ベンチから「高校時代より速くなってるな」との声が聞こえた。どうやら、かつての対戦相手が在籍しているようである。
入部から里中は高山の「全身をバネのように使う」ピッチングを参考にしていた。オーバースローの高山とサイドスローの里中ではバネの使い方が違うはずだが、なぜか、その言葉が頭の中で引っかかっていた。「身長の低い高山さんは常に身体全体をバネにすることを意識している。体重のない俺にも、その意識は必要だ」と考えていた。
練習試合の気楽さからかノーヒットで打者一巡を片付けた。変化球ばかり多投した感覚はない。高校時代は対戦した江口を始め、後輩の浜や二本松が里中よりも速いストレートを投げたので里中は勝手に「俺のストレートでは通用しない」と思い込んでいた。しかし監督の下川は「サイドスローのストレートは自然にシュートするものだ。自分で思っているほど高校時代もストレートを狙い打ちされていないはずだよ」という一言で直球にも自信が持てた。
カーブとシンカーを見せ球にしてストレートを凡打させるピッチングが明治石油ナインを翻弄したのである。無理に三振は狙わず、バッターのタイミングを外す。カーブとシンカーを警戒していた明治石油ナインはストレートを打ち上げたり、引っかけて内野ゴロに打ち取られた。
「里ちゃんばっかりに、いい格好させられねぇな。ヒロシよぉ。俺たちもいいトコ見せねぇとよぉ」
四番に入った中間が加藤に声をかける。加藤も、その気である。
「判ってるよ。トオルよぉ。練習試合だってのに会社のお姉様方が応援に来てくださってんじゃねぇか。まずは野球のバットで活躍して名古屋に戻ったら下のバットを可愛がってもらおうじゃねぇか」
「おう!年上の女ってのも、いいもんだぜ。ヒロシは塁に出るだけでいいぞ!俺もバットでベロンベロンしてもらうからよぉ」
「抜かせ!俺がスタンドにブチ込んでやるからよぉ。お前はおとなしく三振でもしてろ!」
「スタンドにブチ込むのはボールだからな。バットをブチ込むんじゃねぇぜ!」
高校野球だったら審判に注意される会話だが、社会人野球になると、この程度の野次で審判は何も言わない。相手の明治石油ベンチからの野次も相当のものである。
「よぉ!愛徳のチンピラコンビ!少年院が待ってるぜ」
「そんに女に飢えてんなら、うちの女子社員とどうだ?石油会社だけにヌルヌルしてるぜ」
加藤が打席に入るとキャッチャーも容赦ない。
「おい。ピッチャー。構わねぇから、この生意気なガキを病院送りにしてやれ!頭じゃなくてキンタマ狙え!」
と露骨に野次る。もちろん加藤も黙ってない。名古屋じゃ狂犬と呼ばれる喧嘩屋だ。左打席からピッチャーを睨みつける。さすがにビーンボールは投げてこないが内角スレスレのボールを上手く叩いて右中間を抜けるツーベースを決めた。
「やりやがったな。ヒロシの野郎!ここで一発決めねぇと、デパートガールと酒池肉林の夢が消えちまうぜ」
などと言いながら打席に入った中間はキャッチャーに向かって
「どうせなら顔面狙って来いよ!上等だ。おら!」
と挑発。これまたビーンボールではないものの、内角の厳しいコースにストレートが来た。待ってました!とばかりにジャストミートしたボールはフェンス直撃。加藤は悠々とホームイン。全丸大が先手を取った。
ベンチでは下川監督と高山が大笑いしながら手を叩いている。加藤と中間の下品な発言に注意もしない。里中も、いつも間にか釣られて笑っていた。隣にいた高山は里中に
「俺も高校野球からノンプロに入ったばっかりは、この露骨な野次合戦には驚いたけどな。これがオトナの野球ってもんだ。里中はコントロールいいから言われないだろうけど、俺なんかノーコンだろ。殺人ボールだの。やれ生命保険に加入させろ!だの。ひどいもんだぜ」
監督の下川も
「どの球場でも、そうだが、スタンドからの野次はグラウンドでもちゃんと聞こえるが、グラウンドでの野次はスタンドには聞こえにくいものなんだ。プロになると、もっと酷いという話も聞く。好投しているピッチャーには、きつい野次が飛ぶものだ。近畿リンクスの村野さんなんか、どこで調べたのか打者の浮気を知ってて、嫁さんが泣いてるでぇ、とかやるそうだ。里中はハンサムだからな。彼女に内緒で他の女と浮気したら、まんまと餌食になるぞ!まぁ高校野球と違って、そんな野次で動揺してたら野球にならんってことだな」
一瞬、里中はギクリとした。朱美との関係が野球部になれているのか?と思ったからだ。
「いえ…そんな。名古屋に来たばっかりで…今は…そんな…」
うろたえる里中を下川がからかう。
「お!こいつ、こう慌てるところを見ると、もうレコが出来てるな!噂じゃデパートの呉服売り場じゃ女性客が増えたって話だしなぁ」
「いえ…監督。止めてくださいよ」
ベンチに戻ってきた加藤と中間はニヤニヤしながら
「甲子園なんか里中ファンの女の子の声援で大変だったんですよ。俺らなんか完全に悪役扱いですよ。なぁヒロシ」
「まぁ…もともと悪役っていうより、悪そのものだったけどな」
加藤の自虐的な冗談に全丸大のベンチは爆笑した。反面、練習試合といえ格下の全丸大にリードを許した明治石油のベンチは野次にも焦りが感じられる。高校野球とは全く違う雰囲気だが里中は、この試合に確実な勝ちムードを感じていた。