第201話 心の暗闇●「白痴」
文字数 3,243文字
球団から雇われた精神科医が冷たく言った。整形外科なら、まだしも精神科医が東京ガイヤンツの寮に往診する等、前代未聞の話である。医師は完全に萎縮していた。暴れる患者を数人の医師が取り押さえて鎮静剤を注射するケースは彼も経験している。しかし屈強なプロ野球選手が暴れているとなると身の危険を感じているようだ。
かくして黒岩二軍監督を先頭に長尾ヘッドコーチ。中川二軍投手コーチ。里中繁雄。江口敏と同室の淡谷。同期入団の大西。寮長らが医師をカードする形で江口の部屋を訪れた。黒岩が「江口選手。少しいいかい?」と言いながらノックをするが返事がない。黒岩はドアに耳を密着させ中の様子を伺うが「音は何もしていないですわ。暴れ疲れて寝てしまったんかのぉ」と言う。
「空けてみましょう。江口選手が怪力と言っても、我々四人がかりで抑えれば大丈夫でしょう」と長尾が先頭に立った。さらに一言「現役は手を出すな!」と付け加えた。長尾がドアを開けると深夜二時近くにもかかわらず部屋の明かりは煌々とついている。床には食べ散らかした魚肉ソーセージのビニールや丸かじりした跡のあるセロリ。菓子などが散らばっている。寮長は
「他の選手から聞いていたが、冷蔵庫の中身をいくら補充しても一晩で無くなってしまうのは江口選手が食べてしまうって言うのは本当だったんだな」と納得した。
誰もが江口は部屋の中心で胡坐をかき、テレビを観ているように見えた。全員が数歩近づくと、それが見間違いなのが発覚した。テレビは音を小さくしてついている。もう放送終了し、砂嵐のような画面が意味もなく映っている。江口はジッと動かない。中川コーチが少し血相を変えた。「ま…まさか自殺では…」と呟くと後ろにいた医師は「いえ…胡坐をかいたまま死亡することはないです。彼は生きています」と言うので一同は少し安堵した。
黒岩と長尾が近づくと江口が見つめているのはテレビではなく、何もない薄汚れた白い壁だった。その表情は笑ってもいなければ泣いてもいない。言わば能面のような不気味な無表情になっていた。長尾が江口の腕を軽く掴んで「江口選手…江口君」と声をかけるが返事はない。ただただジーッと壁を見つめているのだ。里中は、いても立ってもいられない心境になり
「江口!一体どうしたんだ!」と大きな声を出した。医師が唇に指を当て「しっ」というジェスチャーをした。「刺激しちゃいけない」と言いながら、江口の左腕に注射針を当てた。
「先生、こんな事態の中で申し訳ありませんが、右腕への注射にしていただけませんか」
と言い出したのは中川コーチだった。付け加えるように「彼は左投手なんです。完治したらマウンドに戻してやりたい…」と頼んだ。ちょうど部屋のドアから向かって右側がベッド。向かって左側がテレビと荷物置き場になっている。江口はドアに左半身を向けた状態で胡坐をかいている。医師としては手っ取り早く注射するのは左腕の方が都合がよかった。
「こういう症例ですと、またいつ暴れ出すか分りません。今は呆けていますが、発作的に暴れるケースがあります。皆さんで患者が動けないように抑えてください」
と医師は頼んだ。黒岩と長尾が両腕を、中川と寮長が両足を抑えた。その瞬間、江口の口から「ごめんなさい」という呟きが洩れた。医師は一瞬、ビクッと身体を震わせたが、江口に暴れ出しそうな兆候はないと見るや、即座に回り込み江口の右腕に鎮静剤を打った。数秒後には江口の目はトロンと眠そうに変わっていく。小さな声で「河村監督に申し訳ない…僕は…」と言葉を残すと昏睡状態になった。
江口を救急車に乗せてから、七人は少し話し合った。長尾を筆頭に球団側からは「江口の入院先は選手には教えない」「入院中、江口は偽名で入院させる」「寮在住の全選手には今日は素振りによる事故と口裏を合わせる」と言い渡された。だが、里中を筆頭に淡谷、大西は納得できない。「同じガイヤンツの仲間である江口に見舞いさえ行けないのは理不尽だ」と三人は反論した。長尾は「球団の方針だ。この件は秘密に処理する」と突っぱねた。
しかし黒岩二軍監督と中川コーチが途中から選手側の立場に立った。日頃から温情派の中川は
「長尾コーチ。彼らの言い分は最もです。淡谷君は入団以来、江口君と同室で過ごしてきました。今回のことでは彼は迷惑をかけられたにも関わらず江口君に対して友情の気持ちを持っている。また大西君も、その試みは失敗に終わりましたが江口君の為に本気で怒れる友人です。里中君は同期入団ではありませんが、高校時代から良きライバルであり、良き友人であった。この三人には特例として江口君の入院先。また入院中に使われる偽名を教えてもいいんじゃないでしょうか?もちろん江口君の容態が良くなり、彼らが見舞いに行くのであれば必ず偽名を使うこと。ガイヤンツ球団の帽子やジャンバーは絶対に着用しないこと。サングラス等で顔は隠して病院に入ること。マスコミは、もちろん他の選手に口外しないことを厳守させれば、それはそれでチームとして素晴らしいことだし、江口選手の再起の助けにもなります」
と珍しく強い口調で長尾に詰め寄った。黒岩も、それに同調した。
「コーチの言う通りじゃ。チームメイトでなくてもライバルチームの選手が怪我で入院してもオフの日や試合前に病院に寄って見舞いぐらいはする。それがスポーツマンシップというものだ。それに表向きは江口君は怪我という発表をするのであれば同じチームの若手選手が見舞いに行かないというのも不自然じゃないかね?」
長尾は、しぶしぶ従った。だが日頃から折り合いの悪い黒岩の言い分には腹を立てていた。
「元はと言えば黒岩さん。あんたが球団の方針に反して江口選手を打者転向などさせるのが悪い。あれから江口選手の肥満が始まり、このようなノイローゼの悪化を引き起こした」
と嫌味で返した。黒岩も後任の二軍監督として前任長尾の選手指導方法に疑問を持っている。
「何を言われるか?ただ単純に厳しければいいという、あんたの指導方法で江口君という有望な若者の心を蝕んだ。ピッチャーとして行き詰っていればバッターとして転向させる。新しい可能性を見つけてやることが指導者としての仕事じゃろ!球団の方針は確かに考慮する。しかし現場は現場じゃ」
「何だと!私は常にイースタンリーグでもガイヤンツ二軍を優勝させておる。投手コーチとしても現在のエース、堀本や高岡一三を指導して一軍に上げている。ガイヤンツを放り出されて海洋モータースなんかで気楽な監督をやっていた黒岩さんに分る訳はない。だいたい、あんたが監督やってた時期でも、まぐれで三位が一度。後は良くて五位。最下位が指定席じゃないか!」
「気楽な監督とは何ですか!取り消していただきたい。ガイヤンツのように良い選手が集まらない。田舎の弱小チームを球団設立以外初のAクラスに入れたのは、このわしですぞ!」
黒岩と長尾の言い争いに寮長と中川が割って入った。こんなことをしている間にも空は明るくなってきている。明日は一軍も二軍も試合を控えている。しかも、優勝戦線に関わる試合だ。大急ぎで以下の取り決めが決められた。
「里中、淡谷、大西の三名は江口選手の入院先への見舞いを許可する。ただし芳名帳には偽名を記入すること。ガイヤンツ関係の持ち物、衣類は着用しないこと。三人一緒に行動しないこと。また、当初、江口選手は専門医の治療を受けるため、精神科専門病院に入院させるが、病状を見て、総合病院に転院させる。これまで他の選手には口外しないこと」
等が約束された。もし破った場合は罰金三十万円という若手選手にとっては手痛い罰金額も設定された。それぞれが、それぞれの立ち位置から、なんとも釈然としない思いが残りつつも、納得させられたという結末だった。