第200話 心の暗闇●「発狂」
文字数 4,376文字
寮を入ったところに淡谷が着替えもせずにいた。淡谷は里中の帰りを待っていたようだ。
「淡谷さん。どうしたんだ?一軍は三連戦中で忙しいんじゃないですか?」
「それが里中君。江口がね…江口が…。とうとう…」
陽気な淡谷にしては珍しく深刻な顔をしている。さらに今にも泣き出しそうな表情だ。
「え!江口ですか?江口が、どうしたんですか?」
「とうとう暴れ出しちゃったんだよ。俺もう怖くて部屋に入れないんだ」
里中と淡谷の間に寮長も入ってきた。
「わしも、淡谷選手の報告を受けて江口選手の部屋をノックしてみたんだよ。すると中から、うわーっ!という声がする。ドアを開けると江口選手が、またうわっ!うわっ!とか嫌だ!嫌だ!と言いながら、わしに掴みかかって来る。わしだって元プロ野球選手だ。取り押さえようと思ったが江口選手の馬鹿力には、とても適わない。それで黒岩監督と中川コーチに電話して、待っていたんだ。一軍からは、なるべく他の選手に悟られないように…と言われていて、わしも困っているんだ。里中選手は江口選手とは友達だから、まぁ知っていてもいいのだが…」
「他の選手に悟られるな…と言われても、大声を出されたら、それは無理な話でしょう。この寮では隣の部屋の声は筒抜けですよ」
里中が言うと淡谷も続けた。
「寮長。もうすでに他の部屋の選手も知ってますよ。俺が部屋に入ろうとしたら、うわぁっ!と叫んで殴りかかってきましたからね。江口君も、かなり大柄だし、怪我以来太って力も凄いですから、四人ぐらい集めて取り押さえないと、監督やコーチだけじゃ収まりませんよ」
少しして中川投手コーチ。直後に黒岩監督が到着した。さらに一軍ヘッドコーチでもある前二軍監督長尾も事情を知る者として駆けつけた。球団医師からの連絡を受けて若い精神科医も寮に到着した。この騒ぎで就寝していた若手選手も寮の玄関に押し寄せている。
「江口君の暴れ方は尋常じゃありません。俺だってプロ野球選手ですから、押さえつけようと考えましたが、とても対抗できそうもないと思って逃げてきたんです。こうして選手も集まったことだし四人ぐらい残ってもらって押さえつけたら、どうでしょう?」
と淡谷は提案した。しかし長尾ヘッドコーチは反対した。
「淡谷選手の気持ちは嬉しい。だが、寮長も含めて、私も黒岩君も中川君も、ガイヤンツで鍛え上げた身体だ。それに現役を引退しても君たち若い選手と一緒にグラウンドで汗を流している身体だよ。江口選手の怪力は想像できるが、我々だけで大丈夫だ。シーズンも後半戦。こんなことに巻き込まれて突き指などしても馬鹿な話だ。現役選手は手を出すな」
それを聞いた黒岩は淡谷と里中だけを残すと「他の者は全員、自分の部屋に戻れ!一軍も二軍も大事な時期だ。明日のスケジュールも予定通りだ」と告げた。くだんの選手は釈然としないまま自室に戻った。ただし二軍内野手に定着した大西は
「江口選手が変わってしまったのは、俺を怪我させた件に原因があります。俺も立ち会います」
と言い張って、その場に残った。若い医師は大急ぎで注射器の準備をしている。鎮静剤を注射して眠らせた江口を救急車で夜中のうちに運んでしまおうという計画だ。里中が表を見ると、知らないうちに寮の玄関前に救急車が止まっている。サイレン音とランプを消して目立たないように待機していたのだろう。確かにガイヤンツの若手寮に救急車が止まっていたのを誰かに見られたら、何があったんか勘ぐるスキャンダル記者もいることだろう。
「明日になって誰かに寮に救急車が来ていたことを訊かれたら、夜中にバットの素振りをしていた選手が手を滑らし、同室の選手に怪我をさせてしまったと答えろ!他の選手も同じだ。寮長は江口君を救急車に乗せたら、全選手に、それだけは徹底してくれ!ともかくガイヤンツの選手がノイローゼになって暴れた等ということが外部に洩れてはいかんのだ」
長尾が語気を強くして里中達に伝えた。里中、淡谷、大西は「ハイ」と返事をしたが、内心疑問があった。江口敏の精神状態に異常をきたしていたのは、もう一年以上も前になる。三人には療養のために江口を実家に戻すべきではないか?と球団の方針に疑問を持ち始めていた。
里中は三人を代表して黒岩監督に訊いた。
「江口君の実家に俺は行ってないですが、相当の邸宅だと聞いています。父親は元ノンプロの名投手で現在は実業家らしいです。今の敏君の状態を彼のお父さんは知っているのですか?俺は、寮から敏君を出して実家で療養するのが一番だと思うんですが…」
訊かれた黒岩は少し狼狽した。そして
「江口選手が指名される一昨年のドラフト会議では、わしは知っての通り海洋モータースの監督だったんじゃ。複数球団競合の江口選手を避けて指名したので、わしは江口選手の入団経由については何も知らないんじゃよ。長尾さんや中川君なら、分っておるだろう」
と惚けられた。長尾はキッと里中の顔を睨んだ。「生意気な若造め!」という視線である。長尾にしてみても二月のキャンプインでこそ二軍監督だったために里中の存在を知っていたが、その後一軍ヘッドコーチに上がったために、あまり面識がない。「ふん」と言うと里中の提言を「一選手の分際で首脳陣に何を言っておるか」と言いたげに黙殺しようとした。
その長尾の態度を見て淡谷も声を上げた。
「ヘッドコーチ。高校時代に江口選手と投げ合い。良きライバルとして競い合ってきた里中選手の言い分にも間違いはないと思います。私も納得いきません」
と長尾に詰め寄った。淡谷は1970年ドラフト組では三位指名ながら、逸早く一軍入りしたスター候補生である。河村監督が期待をかけた江口は故障。内野手に転向させられた大西も未だ一軍では出番はない。淡谷は同期の出世頭でもあり、長尾が二軍監督時に育てた若手である。最近、一軍でも初ホームランを記録し、気難しい河村監督から「将来のクリーンナップ候補」と期待されている。その淡谷から言われては、さすがに頑固な長尾も説明せなばならなかった。
「判った。まず誤解のないように言っておくが、私自身は江口選手の父親とは面識はない。ただ都市対抗戦等で活躍していたことは知っているという程度だ。江口敏の入団交渉に当たっては同郷出身ということで林捕手が担当した。同じ岐阜県出身。そしてプロ入りしたら江口選手のボールを受けるキャッチャー。そして現在のガイヤンツではグラウンドの頭脳。河村さんにとって打って付けの人物が林君なのだ。当初は江口君は中京ドアーズ志願で、交渉は難航するのではないか?と思われたんだ」
里中も江口がドアーズ志願であることは知っていた。珍しく二人で話した時に「里中君はプロ入りするなら、どこに行きたい?」と訊かれた。「鳥取から近い。それから弱いチームだということで海洋モータースかな?やりがいがありそうだ」と答えた。「もし希望通りに入団できてプロの舞台で投げ合えたら楽しいね」と子供のように語っていた江口の顔を思い出した。
「林と同行した球団事務員の話によると、東京ガイヤンツが一位指名をした時点で江口選手は、すっかりその気になっていたそうだ。まぁ入団交渉以前にフリースカウトの八木や岩田部長が接触していたからな。江口本人にしても、やっぱりガイヤンツか!ぐらいに思ったのだろう。ほとんど二つ返事で入団交渉が始まったらしい。林君が、こんな所まで俺が行く必要もなかったと愚痴を言うほど、すんなり決まった。父親の事業は順調。契約金等で難航もしなかった。ただし契約が成立した直後に江口選手が変なことを言い出した…らしい」
「変なこと?一体、何を言い出したんですか?」
里中が尋ねた。
「里中選手なら対戦経験があるだろう。高校の頃、江口のキャッチャーを務めた矢吹正も一緒に入団させられないか?という変な要求だ。例の深間山荘事件の実行犯になってしまった男だな。地区予選ではホームランも打っているが、甲子園のレベルになると打撃も奮わない。調べると中学生まで柔道選手だったというから、よくやったというレベルの選手だ。とてもガイヤンツのドラフト候補にできる成績ではない。それに早い段階から矢吹はプロ入りは拒否していた」
「俺も何度か対戦していますが、青雲大付属高校打線で怖いのは江口一人でしたよ。矢吹は四番に抜擢された試合もありましたが、そんなに怖いとは感じなかった。ただしチームを引っ張っていくリーダーシップとか、江口選手をコントロールする力は凄かったです。結局、犯罪に手を出してしまったというのは残念ですが、人間として魅力的な男でした」
「そうらしいな。江口選手の言い分としては矢吹君がいないと僕一人では何も出来ないと言っていたそうだ。最も江口君の父親は矢吹を、さほど気に入っていなかったようだ。ガイヤンツの一位指名は、これ幸い。矢吹正と縁を切らすチャンスだと考えていたんだろう。父親の計画では息子の江口敏を私立の進学校に入れたのは甲子園など行けずに負けて、その先。大学とかノンプロで活躍させ、それからプロ入りと考えていたようだ」
「それが江口の怪物ぶりを発揮させるキャッチャーが現れてしまった。まぁ…それまでの青雲大付属のキャッチャーでは江口君は全力投球できなかったでしょう」
「そうだ。そこで本題に戻るが、江口選手の父親が、それなりのレベルで野球を理解していることが問題なのだ。自分が手塩にかけて英才教育した息子。それを事もあろうにプロ野球の盟主、東京ガイヤンツがノイローゼにしてしまったと知ったら、どうなる?ガイヤンツの指導方法が間違っている!と騒ぎ出す恐れがある。相手は金持ちなので口止め料も効かない。球団としては江口選手のノイローゼは秘密裏に治療し、せいぜい一軍で数試合投げさせなくてはいかんのだ。もちろん、私だって江口君が左のエースとして活躍してくれることを望んでいる。それが出来なくても力及ばず引退でもいい。一、二勝してトレードでもいい。ともかく、今のままではいけない。絶対にノイローゼだけでも治さなくてはいけないのだ」
一気に内面を吐露したせいか、長尾の目にも涙が浮かんでいる。つねに気難しい顔をして選手を叱咤する鬼軍曹も人知れず苦労しているのが三人にも分った。里中は入団して、この長尾が好きではなかった。だが、この長尾を涙を見て少しだが、この人物に好感を持てた。