第133話 狂気の延長戦●「耳打ち」

文字数 1,805文字

 野球の試合において打撃戦というのは両チームともに活気があるものだが、投手戦というのは緊張感が支配する。投げている投手は、いささか高揚感を感じているが内野、外野手は一つのエラー、一つのミスが勝敗を決める。普段ならエラーをしても「打って返せばいいだろ!」などと嘯いている強打者でも、こういう試合になると、そんな景気のいい台詞は出てこない。
 試合は延長十六回に入った。青雲大付属にとっては二番から始まる上位打線である。織田監督は、このイニングで得点しないと良くて引き分け再試合。悪くて負けを覚悟していた。ただ織田は、この十六回を待っていた。ちらっと一塁側ベンチの土井を見た。計算通りであるマウンドの里中は動かさない。織田は赤川と矢吹を呼び寄せると耳打ちした。
 「俺の思った通りだ。土井の野郎。リードするまではファースト二本松とライト浜は替えないつもりだ。里中は外野手に転向させたなんてのは相手チームを惑わすための方便よ。土井が一番信頼しているピッチャーは浜や二本松じゃない。里中だ」
 「自分も、そのように見ていました。ただ由良明訓の攻撃力が凄かったので、ここまで里中を温存できたんでしょう」
 矢吹も織田に同意した。織田は続けた。
 「だが浜と二本松を引っ込めない理由は何だ?答えは簡単だ。里中のスタミナが心配なんだ」
 「しかし監督、里中がマウンドに上がったのは七回から。ちょうど九イニングを投げ切ったところじゃないですか?」
 赤川が反論すると織田は笑いながら赤川を叱った。
 「だから、お前は甘いんだよ。六回までは三番打者とセンターって重責を担ってたんだ。赤川!お前は外野手だが、この夏の甲子園で外野だったら疲れないっていうのか?」
 「確かに、今日は全く出塁できてませんが、それでも試合が終わって宿に戻ったら、一瞬でぶっ倒れる自信がありますね」
 と赤川が納得する。横にいた矢吹も鋭く観察していた。
 「俺や江口も、そうですが田山、岩城、馬場は二年前に比べると逞しい体つきになってますね。里中も筋力なんかは強くなっていると思うんですが二年前のスマートさが、そのままになっているように見えます。長時間の試合をやる野球よりも陸上競技…それも短距離やジャンプ系の選手みたいな印象は変わらんです」
 「さすがに矢吹はよく見ているな。本人も二年前から増えにくい体重には悩んでいるが、体質なんだろうな。俺の見た感じではピッチャー里中のスタミナは限界よ。俺が連中の監督やってた頃から、そうなんだが七回ぐらいを境に里中はストレートの球威も落ちて変化球も、あまり曲がらなくなる。あの頃は土井が三番打ってたし、大量リードして大川なんて三流ピッチャーに交替させてた。まぁ里中は強気だから替わりたがらないけどな」
 「分かりました。待球作戦ですね。ツーストライク取られるまでは見ていきます」
 赤川が結論を急ぐと織田は、それを遮った。
 「馬鹿。お前らは勉強が出来るのに駆け引きが出来ねぇな。待球なんかした日にゃ由良明訓ベンチに里中のスタミナ切れを狙ってますって教えているようなもんだぞ。甲子園四連覇のチームを甘く見るんじゃねぇ!ああして浜と二本松なんかをグラウンドに残してんじゃねぇか!里中が限界と見れば土井は、どっちかをマウンドに送る。三イニングしか投げてない二人に代わる代わる全力投球されたら点なんか取れねぇよ。いいか!ピッチャー里中は頼りになるが、里中をマウンドに上げた時点で明訓のディフェンスは一番弱い」
 さすがにキャプテンを務める矢吹である。織田の狙いを即座に理解した。
 「そうか!打撃面でも期待のできる二本松だがピッチャー以外のポジションは、さして上手くはない。浜は器用でピッチャー以外でも守備は悪くないが足はさほど速くない。本来なら一塁を守らせておきたいが鈍足の二本松に外野は任せられない!」
 「そうだ!なぜ?この決勝戦のステーティングメンバーはピッチャー二本松、ファースト浜、センター里中だったか?土井は攻撃面でも守備面でも総合力の強い形で、この試合に臨んだということだ。そして里中をマウンドに送った時点で由良明訓ディフェンスの弱点は一塁線!すなわちファーストからライトに偏っている。それだけ頭に入れておけ!後は自分で考えろ!」
 織田はベンチから少し上半身を乗り出した。このイニングで打倒由良明訓を果たす覚悟が選手たちに伝わってきた。
 
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

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