第32話 思春期激闘編●「脚光を浴びるという苦悩」

文字数 1,351文字

 里中繁雄がマスコミにうんざりしている八月の終わり頃、江口敏もやるせない日を過ごしていた。折りしも地元岐阜県では飛騨川バス転落事故により約百名が事故死する惨事が起こった。一回戦で惜敗したとはいえ奪三振の山を築いた剛球左腕江口の名は地元に戻ってからもマスコミが追いかける存在であったが試合から一週間後の八月十八日にバス事故が起こり、世間の関心事も事故へと移ってしまったのである。
 不思議なもので何度も何度も同じ質問をされるのに辟易していた。七回表に田山に走者一掃ツーベースを打たれたボールは失投ではない。狙い済ました内角の胸元を抉る渾身のストレートだった。だが自分のどこかで自分にブレーキをかけているのだ。ボールは無常にもホームベースの真ん中付近へ寄ってしまう。
 あの恐ろしい集中力を持つ田山が、そんなボールを見逃す訳がない。分厚い身体が全身ゴムになったように捻り、猛スイングがボールを弾き飛ばす。一二塁間を弾丸のように突き抜け甲子園球場のフェンスに直撃していた。右翼に入っていた小宮がボールに追いついた時には三塁ランナー馬場はホームイン。懸命のバックホームも虚しく一塁ランナー土井はホームへのスライディングを決めていた。これで逆転…。
 敗因は江口が打者の内角に投げられないところにある。由良明訓ナインは冷静に江口を観察し、冷酷にその弱点を突いた。もし、あそこで田山を仰け反らせるような内角高めが投げられていたら結果は変わっていたかもしれない。矢吹のアドバイスもあって田山への一球は失投だと答えた。取材の度に「失投です」と答えるのにもうんざりしていた。
 しかし地元のニュースがバス事故一辺倒になると、不思議なことに自分が忘れ去られた存在になってしまった寂しさが襲ってきた。一度脚光を浴びてしまった人間には脚光を浴びることと無縁な人間にはない苦悩がある…江口敏は、それを初めて知ったのだ。
 部室で高校野球中継を見ていると「ここで飛騨川バス転落事故のニュースです」と捜索状況が報告される。3分ほどのニュースが終わると「それでは画面を甲子園球場に戻します」などとアウアンスが入り高校野球中継に戻る。皮肉なことに由良明訓が大量得点を挙げて一方的な試合をしていたりする。
 すでに朱美を巡って憎たらしい里中繁雄はマウンドを降りてセンターを守っている。精悍な顔立ちが日焼けで精悍さを増している。「里中選手は外野手としても素晴らしい選手です」解説者が褒めちぎっている。俊足を駆使してボールに追いつき、投手ならではの強肩とコントロールで見事な返球を見せていた。
 ともかくいろんなこと決着をつけなくてはいけない。江口の思ういろんなこと…の最優先は朱美である。甲子園のマウンドで江口敏が戦ったのは由良明訓の強力打線だけじゃない。一番江口を苦しめたのは朱美の存在そのものだった。もう矢吹には相談しなかった。「もう忘れろ!」と言われるだけだ。
 家や野球部には置手紙だけしておいた。変な大騒ぎにさせたくなかったのだ。一人で東海道本線に乗り込む。行く先は決まっている名古屋だ。例え、どんな結果になろうと、もう一度朱美と直接会い自分自身で決着を着けなくてはならない。自分の中のモヤモヤしたものを払拭しなくては前に進めなくなっていたのだ。
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

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