第32話 思春期激闘編●「脚光を浴びるという苦悩」
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不思議なもので何度も何度も同じ質問をされるのに辟易していた。七回表に田山に走者一掃ツーベースを打たれたボールは失投ではない。狙い済ました内角の胸元を抉る渾身のストレートだった。だが自分のどこかで自分にブレーキをかけているのだ。ボールは無常にもホームベースの真ん中付近へ寄ってしまう。
あの恐ろしい集中力を持つ田山が、そんなボールを見逃す訳がない。分厚い身体が全身ゴムになったように捻り、猛スイングがボールを弾き飛ばす。一二塁間を弾丸のように突き抜け甲子園球場のフェンスに直撃していた。右翼に入っていた小宮がボールに追いついた時には三塁ランナー馬場はホームイン。懸命のバックホームも虚しく一塁ランナー土井はホームへのスライディングを決めていた。これで逆転…。
敗因は江口が打者の内角に投げられないところにある。由良明訓ナインは冷静に江口を観察し、冷酷にその弱点を突いた。もし、あそこで田山を仰け反らせるような内角高めが投げられていたら結果は変わっていたかもしれない。矢吹のアドバイスもあって田山への一球は失投だと答えた。取材の度に「失投です」と答えるのにもうんざりしていた。
しかし地元のニュースがバス事故一辺倒になると、不思議なことに自分が忘れ去られた存在になってしまった寂しさが襲ってきた。一度脚光を浴びてしまった人間には脚光を浴びることと無縁な人間にはない苦悩がある…江口敏は、それを初めて知ったのだ。
部室で高校野球中継を見ていると「ここで飛騨川バス転落事故のニュースです」と捜索状況が報告される。3分ほどのニュースが終わると「それでは画面を甲子園球場に戻します」などとアウアンスが入り高校野球中継に戻る。皮肉なことに由良明訓が大量得点を挙げて一方的な試合をしていたりする。
すでに朱美を巡って憎たらしい里中繁雄はマウンドを降りてセンターを守っている。精悍な顔立ちが日焼けで精悍さを増している。「里中選手は外野手としても素晴らしい選手です」解説者が褒めちぎっている。俊足を駆使してボールに追いつき、投手ならではの強肩とコントロールで見事な返球を見せていた。
ともかくいろんなこと決着をつけなくてはいけない。江口の思ういろんなこと…の最優先は朱美である。甲子園のマウンドで江口敏が戦ったのは由良明訓の強力打線だけじゃない。一番江口を苦しめたのは朱美の存在そのものだった。もう矢吹には相談しなかった。「もう忘れろ!」と言われるだけだ。
家や野球部には置手紙だけしておいた。変な大騒ぎにさせたくなかったのだ。一人で東海道本線に乗り込む。行く先は決まっている名古屋だ。例え、どんな結果になろうと、もう一度朱美と直接会い自分自身で決着を着けなくてはならない。自分の中のモヤモヤしたものを払拭しなくては前に進めなくなっていたのだ。