第20話 甲子園編●「見逃しか?空振りか?」
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江口敏の右足が高く上がり、大きな体がゴムのようにしなる。左腕から放たれた剛球は重く速い。まるで砲弾が目標を打ち抜くようにキャッチャー矢吹太のミットに収まった。たったの九球で由良明訓高校は三者三振に討ち取られた。
「やっぱり甲子園だ。新聞で騒がれる強力打線だね」
ベンチに戻った江口は、すでに汗びっしょりになりながら矢吹を始めとするナインに告白した。
「さすが江口だな。もう気が付いたか!」
一番の岩城は三球とも空振り。二番の馬場は三球とも見逃し三振。三番は主将の土井。一球目は見逃し。二球目はバントの構えからバント失敗。三球目は空振りの三振。結果だけ見ると手も足も出ないという印象だが、江口と矢吹のバッテリーは動揺していた。
岩城はアメリカ・メジャーリーグのスラッガーのように大きく構え力任せにフルスイングをしてくる。一球目こそ振り遅れていたが、三球目には江口の速球とのタイミングは合っていた。もしマグレでもバットにボールが当たっていたら少なくとも長打。ホームランの可能性もある。
二番の馬場は見るからに力が入っていない。とりあえず審判に怒られないようにバットだけ構えているという雰囲気だ。その代わり冷静な目で江口の速球を観察しているように見えた。
土井は主将だけあって一球目は冷静に見逃し。二球目のバント失敗が曲者であった。田山に四番とキャッチャーのポジションを奪われたものの、それまでは超高校級の名捕手かつスラッガー。そんな選手がツーアウトからバントをするなど考えられない。一球だけ無駄にする代わりにバントが可能なボールか?どうか?を試してみたという感じだ。さらに捕手経験者だけあって、急造捕手矢吹の捕球技術を試してみたというのが本音だろう。不慣れな捕手にとって目の前にバットを出すバントの構えは、それだけで嫌なものである。
「みんな!頑張っている江口を助けるように我々が先取点を入れるように締まっていこう!」
顧問の天野が選手に声をかけた。天野にしてみれば、まさか自分の在任中に甲子園出場などという大それたことを成し遂げてしまうとは想像もしていなかった。冷静沈着な数学教師も、この甲子園の雰囲気で高揚しているようだ。
「気楽に言ってくれちゃうねぇ。天野先生。あの里中って美男子は江口ほど速いボールは投げないけど、高校生どころかプロでも珍しいサイドスロー。微妙に変化する癖だらけの直球。それだけでも厄介なのにリードしているのは天才キャッチャー。野手は全員上手い。打撃のチームとか言われてるけどディフェンスもかなりのもんだぜ」
矢吹はぼやきながら江口を見つめた。江口は呆然とした表情で由良明訓の応援団を凝視している。すでに田山、馬場、岩城、土井らは守備位置につきキャッチボールを始めている。マウンド上では背番号13番を付けた里中繁雄が投球練習を始めようとしていた。
「矢吹くん。朱実さんだよ…あの朱実さんが由良明訓の応援団の中にいる…」
江口は矢吹の耳元で囁くように言った。江口の目は落ち着きがなく明らかに動揺しているのが判った。
「アケミ??あの名古屋の朱美か?まさかあの女が甲子園なんかに来ちゃいねぇだろ。しかも由良明訓の応援団だと?そんなバカな話があるか!」
矢吹は注意深く応援団を見渡した。予想外の甲子園出場を果たした青雲とは違い、もともと鳥取、東中国地区では強豪と呼ばれていた由良明訓高校だけあって悲願達成の甲子園出場とあって壮大な応援団を組んで乗り込んできている。
真夏でも黒の学生服を着込んだ応援団を筆頭に女子生徒によるチアガール。吹奏楽部の一群。白いシャツ姿の一般生徒に端に予選のうちに増えていった私服の女の子集団が固まっている。何人かの女の子は揃いのハチマキを額に締めて芸能人のファンのような格好だ。その中に膝に肘をつけながら頬杖をついて応援団に混じっている一人だけ雰囲気の違う少女がいた。
「確かに朱美だ…。しかし何だってこんなことろに!明訓なんかと接点はないだろうに」
矢吹も呆然とした。自分や江口と知り合っていることを考えれば、にわかに甲子園に興味を持った朱美が観戦にやってくることも理解できる。しかし、それならば今、自分たちがいるベンチの後ろ側。岐阜青雲大学付属高校の応援団に混じるのが筋だ。
朱美はグラウンドに向かって軽くウインクし、投げキッスをした。その何気ない仕草の先はマウンドに立つ里中繁雄に向かっていることを矢吹は直感した。江口も、その投げキッスは見逃していない。唇がワナワナと震えて
「なんで…なんで・・・だよ」
と言葉が漏れた。