第23話 甲子園編●「その優しさに付け込め!」
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一方、青雲のピッチャー江口敏は四回表も三者三振に討ち取り、連続十二三振を奪取。一人のランナーも出していない。こういう展開は観戦する者に青雲の圧倒的有利を感じさせるものだ。
「エラーかヒットが一本出れば青雲が逃げ切る」
記者も応援団も、そのように感じていた。スタンドの明訓応援団の末席にいる朱美にも、そんな雰囲気はあった。ただ他の女子高生たちが「この試合で里中クンを見納めになっちゃう」と悲観的になっているのに、少しだけ違和感を感じていたのだ。中学生の頃から行きずりの男や客の男と寝てきた朱美には里中の表情から追い詰められた男の顔はない。土井、馬場、田山、岩城らの顔には不思議な余裕さえ感じられたのだ。
五回表の先頭打者は田山である。ひときわ大きな歓声が上がる。予選の三振王対ホームラン王の直接対決はプロのスカウト、スポーツ記者、野球ファンにとって注目の対決なのだ。さらに右投げ左打ちの田山が右打席に入ったことで驚きの声が沸き上がった。
青雲ベンチでは天野が控え選手に命じて田山の過去の成績を調べさせた。
「公式戦で田山が右打席に入ったことはありません。ただ由良明訓高校は練習試合を多くこなしているんです。そこで打席までは判りません!」
「うーん。東京ガイヤンツに柴浦という選手がいるけど左右両打ちの選手なはずだ。アメリカではスイッチヒッターと呼ぶらしいが…そういう選手なのか?」
「そういう記録はありませんがキャッチャーだし右利きなのは確かです。どういう理由で左打ちにしているのは判りません。でも天野先生が言う通りガイヤンツではセンター柴浦選手がスイッチヒッターでキャッチャーの森林選手は右投げ左打ちですね」
「それも話を聞いたことがある。キャッチャーは左手でボールを受ける時間が長いから左手が麻痺して打撃の時に左手の握力が低下してしまう。そのため左打ちに変えて右手でバットをしっかり握り、左手は支えコントロールするだけに徹するのが理想だという理論だ。田山の右投げ左打ちは、その実践だと思っていた」
仰天したのは天野ら青雲のベンチだけではない。マウンドにいる江口、キャッチャーの矢吹の動揺は隠せない。江口は内心、
「左投手の僕に対して右打席で対応するのがスイッチヒッターのセオリー。左打席の方が長打力があるから一打席目は左に入ったのか?ただの陽動作戦か?何にせよ大会屈指の強打者だと思うと嫌な感じだ…」
「ベンチから打席まで田山は一回も素振りをしていない…。一回でも右打ちで振ってくれれば田山の右打席がハッタリか?本物か?判るんだが…用心深い男だ。嫌なヤツだ…」
捕手の矢吹も田山のずんぐりむっくりとした身体を見上げた。右打席の田山も構えだけはしっかりしている。不慣れなことをしているという雰囲気は感じない。
一方の由良明訓ベンチでは織田監督と土井主将が顔を見合わせてニヤリと笑った。
「本当に田山は大した一年坊主ですよ!これで江口投手の弱点が明らかになりますね。俺は、こいつに負けたって悔しくないですよ。凄いヤツです」
「何もスイッチしろ!なんざぁ俺は田山に一言も言ってねぇよ。これだけの剛速球なのに四球と死球が一つもないのは、どういう訳だ…と言っただけだ。コントロールがいいのも確かだが、こりゃ江口って野郎の優しさと言えば格好いいが甘さだな。遊びのボール球も全て外側に外している。要するに江口は内角に投げないんじゃなくて投げられないんだ。確かに下手すりゃ死人が出る球威だからな」
そんな中で田山は三振の抑えられた。最後の一球は空振りした。左打席のスイングと、ほとんど変わらない。鋭くスピードのあるスイングだった。田山は本当にスイッチヒッターだということを記者もスカウトも観衆も信じるようなスイングだった。
あまり喋らず黙々とグラブの手入れをしている馬場がポツリと呟いた。
「江口も、いろいろ大変だろうが、もう少し辛抱しなよ。七回表に楽にしてやるからよ」