第188話 栄光の片隅で●「言えない」
文字数 3,151文字
ヨーコの顔は今にも泣き出しそうになっている。もちろんヨーコが聞き出したいのは江口敏の近況である。ガイヤンツの若手選手であれば誰もが江口はノイローゼにかかっていることを知っている。しかし球団からは絶対に口外するなと厳命が出ている。取材陣には「肩に小さなヒビが見つかって投球を控えている」発表した。長尾二軍監督以下コーチ、選手は口裏を合わせている。
「だから、さっきから言っているように肩に小さなヒビが入っているんだ。球団としては去年のドラフト一位だから大事に育てたいんだろう。それにガイヤンツは上下関係に厳しいチームだからね。年齢は一緒でも江口は俺の先輩なんだよ。そりゃまぁ…寮で挨拶はするけど友達付き合いが出来るような雰囲気はないよ」
里中繁雄にとってはガイヤンツ入団以降、初めての休日だった。調布にある朱美の越してきたマンションに入るのも初めてだった。その部屋に名古屋からヨーコ訪れ、東京の任天堂大学医学部に通う元青雲大付属高校野球部マネージャーの内川亜紀も来ていた。里中も、もちろんだが朱美、ヨーコ、亜紀にとっても「深間山荘事件」の実行犯の一人が矢吹太であったことはショックだった。汚らしく伸ばした髪の毛と無精ひげ姿で、ずらりと並んだカメラに一瞥した男が本当に矢吹であることを証明する報道はすぐに流れた。せめてもの救いは篭城事件解決の翌日から明るみになった連合正義軍メンバーによる同士殺人。「山中ベース事件」に矢吹は関与していなかったことである。
ヨーコは晴れて里中と江口がガイヤンツのチームメイトになったことで朱美を通して再会できると楽しみにしていた。矢吹逮捕のニュースは江口にとって大きなショックになっているはず。それならば、せいぜい自分の手料理で持て成したかったのである。しかし朱美の住むマンションにやってきたのは里中一人だった。さらに具合の悪いことに医大の二年生になった亜紀がいたことだ。外科医を父に持つ亜紀は「肩の骨にヒビが入った程度なら日常生活には支障はないはず」とヨーコに教えていたのだ。ヨーコは里中の両肩を掴んで揺さぶりながら
「里中君!何で嘘をつくの?球団には何か厳しく言われているのかもしれないけど、なんで私たちだけにでも本当のことが言えないの?江口君の性格からして里中君に先輩風を吹かせて厳しく当たるなんてことないもの。むしろ心細いガイヤンツの寮に一年遅れでも里中君が入ってくれば、お兄さんのように慕ったはずよ!そういう男よ。江口君は…」
さすがにヨーコはお見通しである。確かに、その通りだ。淡谷や大西から聞いて知っていたが、自分がガイヤンツに入団したことで江口は相当、明るくなったらしい。いっそ本当のことを教えてしまおうか…という考えが頭を過ぎった。しかし誰かがポロッと口を滑らせたら大変なスキャンダルになる。人気絶頂のガイヤンツだけに面白半分の憶測記事も飛び交うだろう。
「ヨーコちゃん…。まだ入団したてて二軍選手の俺達だけどさ…。ガイヤンツなんだよ。毎日のようにテレビに映って…マンガにもなって…プロ野球を見ない人でも長岡さんや司馬さんのことは知っている…。そんなチームなんだ。俺がもし、田山達のようにパリーグの福岡クリッパーズや近畿リンクスの選手だったら、気楽に話せたかもしれない。でもガイヤンツの選手なんだ。どんな親友だろうと婚約している朱美にだろうと言えないことは…言えない」
とだけ里中は言い放った。ヨーコの顔を正面から見るのも辛い。言った瞬間に自分の身体がブルブルと震えるのを感じた。ヨーコは泣きながら「絶対に!絶対に!誰にも言わないから!」と繰り返しながら泣いている。普段、陽気に振舞っているヨーコだけに、一度感情のバランスが崩れると取り戻せなくなる。朱美がヨーコの両肩を抱きながら
「判ってよ。ヨーコ。繁雄だって精一杯なの。もう高校野球やノンプロじゃないんだもの…。球団の事情を選手として守らなきゃならないのよ」
と優しく諭した。そんな様子を見ていた内川亜紀が口を開いた。
「これは私が医者の卵として推理したことを話すわ。里中さんは、ただ聞いてくれればいい。もし本当でも頷いたりしないでね。間違っていたら首を振ってくれてもいいし、そのまま医大生の戯言だと思って聞き流してくれればいい」
亜紀は、そう宣言をしてから話し始めた。
「私がガイヤンツも嘘が下手だと思ったのは肩に小さなヒビが見つかったという点。たしかにプロのピッチャーの使い方としては少しでも骨にヒビが入っていれば全力のピッチングはできないと思う。だけどプロのスポーツ選手ならば自分でも気付かないような小さな骨折はしているものなの。ボクサーの拳が変形しているのは、この小さなヒビのような骨折と自然治癒が繰り返されて変形しているってことね。ヒビの度合いにもよるけどレントゲン写真にも写っていないものもある。だから、小さなヒビが見つかったのでホテルで安静にしているっていうのは新聞記者をごまかすための嘘よ。一軍の選手なら毎日、試合に出れる程度の怪我よ」
里中は亜紀と初対面なので「頭のいい女の子がいるもんだ」と感心しただけだが、朱美とヨーコは高校時代のオドオドした亜紀が一年に大きく変わったことに驚いた。さらに亜紀が続ける。
「次に考えられるのは内科の故障ね。もし細菌や黴菌による他の選手にも感染する病気であればホテルどころかオープン戦のベンチに江口君がいるのは変よ。チームドクターもいるのだから即、病院に入院させるはず。そうなると可能性があるのは内臓疾患。癌、結核等の大病だけど…これもないわ。だったら正式発表して一年間の治療に入るとか、場合によっては引退になるはずなの」
亜紀は少しだけ躊躇したが意を決して次のように言い放った。
「私の推理では江口敏君は精神病を患っている。ガイヤンツ球団が隠そうとするのも分る。世間で言うノイローゼ。精神科や神経科は凄く難しいんだけどノイローゼと言われている症状にもいろいろあって、その診断は病院でも的確には出来ていないの。江口君と会った訳ではないけど私の想像では双極性障害。あとストレスによる機能障害ではないか?と思うの」
「何で、そう思った?」里中は亜紀に訊いた。
「私は高校時代に野球部のマネージャーをしていたから、そう思ったの。調子のいい時の江口君は子供のように無邪気になって陽気になるんだけど、一度、自信を失ったり失敗すると、どうしていいか解らなくなって矢吹君や織田監督。天野先生にすがりつくの。身体は典型的な健康優良児なんだけど、その中身は惰弱な精神だったと思ったわ。家が病院だったでしょ?例えば足を骨折する。それだけで、もう死ぬんだ…みたいになっちゃう人と、幸い足の骨折だけだから、今は治療しようって考える人がいるの。江口君は典型的に、もう駄目だってなっちゃう人。逆に矢吹君は、な~に骨折しただけだ。早く、くっつけ!みたいに思える人。あの二人は全く逆の性格だった。それだけに高校時代は上手くいってたのよ」
里中は黙って内川亜紀の話を聞いた。頷きもしなかったし、首も振らなかった。
「任天堂大学っていうのは御茶ノ水にあるんだっけ?後楽園球場は、すぐ近くだけど江口や俺が後楽園の試合に出るのは、まだまだ先の話だ。医学部は忙しいと聞いている。俺みたいなスポーツだけの男には、その忙しさも想像でしかない。でも、なにか時間が空いた時に多摩川グラウンドにいる江口を見てやってくれ…。俺が今、はっきり言えることは、今の江口は俺が知っていた江口とは別人みたいになっちまったんだ」