第204話 心の暗闇●「尾行」
文字数 4,400文字
心当たりはある。「俺、個人のことであれば朱美のこと。球団のことであれば明らかに江口敏だ。こりゃ安易に朱美の部屋にも行けないし、江口が入院している病院にも行けないな」と思った。歩きながら冷静に考えた。「今は、しがない二軍選手の俺に女のスキャンダルが見つかっても記事にもならんだろう。それに朱美に関しては球団が黙認した婚約者だ。それをはっきりすれば問題はない。やはり江口だな!」と確信した。里中は目的地を江口の入院している病院から荒井の自宅へと変更した。この日は荒井道場の最終日であった。
来年から荒井は富士コンドルズの監督に就任することが決まった。養子の尭が在籍している。これで晴れて義父と息子が同一チームになれる。「里中君の成功を見届けずに練習を中断するのは忍びない。だが、私はコンドルズの監督だ。君はガイヤンツのピッチャーだ。来年は敵同士だよ。来年は神宮や後楽園で勝負しようじゃないか!私も君がマウンドに上がったら全力で、うちのバッターに打たせる。君も全力で、うちのバッターを翻弄しろ!」という言葉で締められた。
結局のところ合気道の極意は、分ったような分らなかったような感覚で里中は荒井道場を離れることになった。最後に荒井の力を借りたことは荒井家の勝手口から帰らせてもらい尾行の男を上手く捲いたことである。
あの救急車騒ぎから一ヶ月が経って、江口敏は総合病院に転院した。ガイヤンツ球団の事務スタッフは江口に「二宮光」という偽名を与え、精神科の病棟ではなく整形外科の個室病棟に入院させた。回診等は精神科の医師が担当する。あくまでも怪我人という扱いである。里中は薄いサングラスをかけ任天堂大学病院へ入って行った。念のための変装である。
面会の際には芳名しなくてはならない。ここでも球団の指示通りに「久保田吾作」という偽名を使った。よりによって球団も、こんな田舎臭い偽名を与えなくてもよさそうなものだが、与えられた偽名である以上は使わなくてはならない。「田吾作」と記入したところで受付の女性が笑いを堪えるように口を手で押さえた。男前の顔と「田吾作」というマンガに出て来る農家のおじさんのような名前のギャップが可笑しかったのだろう。
病室のドアを開けると江口は閑そうにテレビを見ていた。「やぁ。里中君。来てくれたんだね。ありがとう」にこやかに笑う江口の顔を見て里中はホッとした。寮に救急車を呼んだ、あの夜。ガラス玉のような無機質な目で壁をジッと見つめる江口の不気味な表情が目に焼きついて離れなかった。それに比べれば江口の表情に回復の兆しを感じられた。
「うん。それにしても元気そうじゃないか?安心したよ。でも…まぁ…里中と呼ぶのは止めよう。俺は久保。君は二宮だ」
「そうだったね。チームには、すっかり迷惑をかけ続けてしまった。君は田山君や岩城君と会ったりするんかい?」
「いや…会えないなぁ。リーグも違うし、彼らは一年目から一軍。俺は一年遅れで入って、まだ二軍だもの。彼らと堂々と会えるようになるには俺も一軍入りしないとね」
「そうか…君は自分に厳しいな。俺も君のような心の強さがあったら、こんな病気にならなかっただろう」
「そんな弱気なこと言うなよ。俺は高校の頃は君が羨ましかったんだ。田山や岩城も身体がでかくて凄い力を持ってた。俺にも、あんな力があれば…って何度も思ったもんだ」
「高校時代か…。そう言えば、ここの大学には内川さんがいるんだよ。うちの野球部でマネージャーをやっていた内川亜紀さん。医学部の二年生になってるんだ。実習授業の時に僕を見つけて面会に来てくれたんだ。ヨーコさんや朱美さんも東京にいるって…あ…いろいろ聞いたけど、僕はもう…平気だよ。君は女の子に人気があるから、ついつい遊んじゃって朱美さんを悲しませないようにしてくれ。僕は早く元気になってヨーコさんの料理を食べてみたいんだ」
「あぁ…。朱美もデパートで頑張っている。ノンプロの頃に何度かヨーコさんの料理は食べさせてもらったよ。もうプロだよ。凄く美味かった。中華も和食も洋食もレストランみたいに出来るんだ。寮の不味い飯を食ってるとヨーコさんを雇って貰えないか?って思うよ」
「ヨーコさんが寮のコックさんか!それはいい!皆、もりもり食べるよ」
二人は笑い合った。しかし、すぐに江口は真剣な表情になって里中に言った。
「でも…僕はグラウンドに戻れるんだろうか?近くで見てくれよ。僕の頭。ほら…こんなに白髪がいっぱいになっちゃった。僕、まだ二十歳だよ。これじゃオジさんみたいだよ」
江口に言われるままに里中は彼の短く刈られた髪の毛を見つめた。なるほど短髪なので一見、気にならなかったが髪の毛全体の半分以上が白髪になっている。
「ほんとだ。まるで長尾二軍監督の頭みたいだな」と、つい口が滑った。
「長尾監督…か。僕は、あの人が苦手だったな…。一年経って黒岩監督に代わって…これでもう大丈夫だ…って思ったんだけど…やっぱり駄目だったよ」
「いや…俺も最初は、ただ厳しく口うるさい、おっさんだと思って嫌いだったんだけど。こないだ少し話す機会があって、長尾さんは長尾さんで若い選手のことを真剣に考えている人だと思った。ただ、やり方が頑固なんだよな。こうと決めたら絶対に変えない。黒岩監督の方がやりやすいんだけど、いろんなことを試そうとする。俺なんかピッチャーなのに代走で使われそうになったよ。中川さんが止めてくれたけどね」
「中川コーチは好きだな。お兄さんみたいな人だ。また僕はブルペンに入れるだろうか?」
「入れるよ。こんなに元気になったんだ。また多摩川に戻って来い!一緒に投げよう。そして来シーズンは一軍に行こうぜ!」
「あぁ…そうしたい。お父さんにも申し訳ない…。僕、甘く見てたよ。堀本さんの18番。高岡一三さんの21番。その間に入る19番の背番号を貰って、いい気になってプロ入りして…。滅多打ち食らって…。焦れば焦るほど駄目になっちゃった。僕には19番は荷が重かったんだ」
「今は休めよ。休むことも選手の仕事だよ。君は高卒じゃないか?高卒なら二軍で三年目にやっと一軍入りなんて奴はいっぱいいる。それで活躍すればいいじゃないか?俺なんかノンプロで一年やって、ようやく追いついたよ」
「僕は…里…いや…久保君が羨ましかったよ。あんな凄いチームにいたから、あまり評価されなかっただけ…君は高校時代から凄いピッチャーだった。僕らより、一つ年上のパールスに入った殿下って呼ばれてた人…」
「あぁ大田黒さんか!俺達は対戦しなかったなぁ」
「そうそう。青森の大田黒さんだ。あの人のボールは打ちやすかった。スピードも変化球も大したことはないと思った。君のボールは簡単には打てない。僕が左打ちだから打てただけだよ。それでも、あのカミソリみたいな変化球には何度も空振りさせられた…」
「ありがとう…。俺も頑張る。君も頑張れ!」
里中は江口と握手をして別れた。励ましてはみたものの内心では「もう再起は出来ないかもしれない」と感じていた。いつか朱美が「江口君ねぇ…」と言って黙ってしまったことがある。その言葉の先には「プロでは通用しないと思うわ」と言おうとしたのではないか?と感じた。ふらふらと任天堂大学病院から国電御茶ノ水の駅へと里中は向かった。そこに
「これは、これは…里中繁雄君じゃないですか?」と声を掛けてきた男がいた。どこかで見覚えのある男だが、思い出せない。
「忘れてしまうのも仕方ないでしょう。二年前の由良明訓高校野球部と言えば、そこらの芸能人よりも人気者でしたからね。特に里中君は人気があった。今、流行りの西城秀樹よりも女の子にモテたんじゃないかと思ってますね」
ちょっとガラの悪い男である。高校時代に出会った記者のうち誰かなのは確かだ…と里中は
思った。
「確か…あなたは桃園新聞の…」
「そう。桃園の山井ですよ」
「思い出した!好きな女の子のタイプだとか、恋人はいるのか?とか、野球のことは何も聞かない記者だった!」
「あはは。まぁ桃園みたいな夕刊紙では、お堅いスポーツ記事はお呼びじゃない。ああいう記事で読者の好奇心をくすぐるのが私の仕事でしたよ。お陰様で新聞も売れました。おっさんしか読まない夕刊紙ですが里中選手が出れば女性も買った。いろいろ失礼もありましたが、今更ながら、お礼を言わせてもらいます」
「高校の頃は、ずいぶん追いかけて来ましたね?ノンプロに入ったら、全く見かけなくなったんで俺もホッとしてましたよ」
「ノンプロ野球は、さして話題になりませんからね。ガイヤンツに入団されたのは知ってました。でも二軍のピッチャーじゃ私どもは追いかけません。早く一軍に上がってくださいよ。我が社の売り上げのためにもね!」
「こればっかりは実力の世界ですから…俺に決められる問題じゃないですよ」
「ところで里中選手。どうも病院から出てこられましたが、どなたかのお見舞いですか?」
里中は、これで確信した。「俺を尾行しているのは、この連中だ。病院から出てきてお見舞いと普通は訊かない。どこか悪いところがあるのか?と訊くはずだ。明らかに江口のことを疑っている」と思った。はぐらかすために
「お見舞い?いえ…別に知り合いが入院している訳でもないし、お見舞いには来てませんよ。この通り、プロ入りしてもガリガリの身体ですからね。ちょっと胃腸の具合を見てもらっただけです。山井さんこそ、なんでこんな所にいるんですか?」
山井は、唇に笑いを浮かべながら里中を見ていたが、
「いやぁ。会社に戻るところですよ。御茶ノ水から桃園社がある神保町までは、そう遠くもないんでね。電車賃節約して会社に帰るところです。まぁ夕刊紙の記者なんてのは薄給でね。東京グループの大新聞のような月給は貰えてません。ところで里中選手。ここで会ったのもご縁ですから、ちょっと夕飯でもご一緒にいかがです?」
「お言葉に甘えたいところですが、こちらも厳しい寮暮らしの二軍選手の身。多摩まで帰らないと罰金も辛くてね。それじゃ失礼します」
と言って駅に入った。「やはり用心しなくちゃいけない…」里中は肝に銘じた。「江口には悪いが…お見舞いは、これが最初で最後にしておこう」と決めた。