第87話 二度目の夏編●「主将を託す」

文字数 2,594文字

 第51回甲子園大会準々決勝で岐阜青雲大学付属高校の江口敏投手は松山第一高校を相手に完全試合を達成した。奪三振十八。外野へは一回も打球が飛ばなかった。これまで予選では完全試合、ノーヒットノーランを達成していたが甲子園を舞台にした大記録は、この試合が初めてである。
 「僕たちの前の試合が由良明訓高校だったんで、やはり意識していないとは言えないです。でも松山第一高校の選手たちはバッティングが良いんで一人も油断できないと思って投げたら、結果がこうなっていただけです」
 敗戦したチームへの賞賛する、いささか優等生過ぎるコメントに捕手の矢吹は苦笑していた。
 「江口も役者になってきやがったな。あいつが見ていたのは由良明訓だけだ。連中の人気からして試合が終わっても、すぐには球場から出ない。ましてや次が俺たちの試合じゃ、球場のどこかで観戦してるに決まっている。四番キャッチャーに戻った田山。それに里中と浜に自分の力を見せつけるつもりだったんだ。織田監督は、ここからは連戦だから飛ばし過ぎるな…と注意されてたが、飛ばしちゃいません…の一点張りだ。まぁ燃えている江口は、さすがに迫力あったけどよ」
 矢吹の爽快な表情に比べキャプテン青木の顔は複雑な表情だった。
 「そりゃ江口君の体力は僕らからすれば超人的だけど、去年は一回戦負け、選抜は準々決勝まで三戦目で連投はしていない。もちろん負けたら意味はないのは僕も判っているけど、完全試合の翌日に由良明訓との準決勝で球威は落ちないのかな?」
 「まぁ…織田さんも明日はまだ勝てないと思ってるんじゃないかな?だから二点リードしたところで滝に投げさせなかった。むしろ完全試合という記録を作らせておいたと俺は思うね。確かに由良明訓みたいに四点ぐらいリードして里中から浜にピッチャーをスイッチするのは良い戦法だ。だけどよぉ。滝や黒沢が入って打線が強化されたって言っても、俺たちは松山第一から五点取れるような強力打線じゃねぇ。やっぱり、まだ江口あっての青雲なんだよ」
 「そうだよなぁ。もし江口君が入って来なかったら、俺が甲子園に三回も来ているってことはないよなぁ。毎年のように予選の二回戦ぐらいで負けて、野球を辞めて予備校にでも通っている夏なんだよなぁ」
 「でも青木先輩は、よくやってくれたよ。俺や江口がいてキャプテンなんかやりにくかったと思う。努力で三番ファーストを守り通した尊敬できる先輩だよ。勉強面だって学内でも十番以内。野球部じゃぶっちぎりのトップ成績だ!」
 青木は思わず涙ぐんだ。最初は江口や矢吹を疎ましく思っていた。進学校の弱小野球部だって構わない。小宮、岡部ら先輩達と仲良く野球ができればよかった。僕たちには僕たちの身の丈ってもんがある。甲子園に出場しプロ野球で活躍するような夢がなくても高校野球をやったっていいじゃないか?という身の丈だ。
 そこに間違って迷い込んできたような怪物ピッチャー江口敏。裏では「あいつは来る高校を間違えている」と陰口を叩いた。青木自身が、その一人だった。打つどころか誰にも捕れない江口の剛速球を捕れるかもしれない…そんな憶測で入ってきた矢吹正。この矢吹の入部も誘い込んだ岡部以外は眉をひそめた。
 噂では不良グループのリーダー。ヤクザやチンピラとも交際している矢吹は江口以上に間違って迷い込んできた新入生だった。しかし中学柔道で全国制覇した運動神経。名古屋の暴力団員も一目置くクソ度胸。一度、目標を見つけた矢吹の一途な努力。不良グループを束ねる統率力には驚いた。江口は野球選手としての技術や体力は凄いが統率能力はあまりない。
 この二人によって弱小野球部には夢にも出てこなかった甲子園が見えてきた。レギュラーから外れた三年生は「一日も早く受験勉強を始めたい」と言って退部する者もいたが、大半の部員は「甲子園出場なんて補欠でも、なかなか経験できん。高校時代の最高の思い出になるぞ」と言って付いてきた。その原動力は江口よりも矢吹の存在だったかもしれない。
 青木の脳裏に、そんな思い出が蘇った。
 「冷静に考えて、僕らの力では明日の由良明訓には勝てないと思う。もちろん負けるつもりで試合をする訳じゃないが、勝てる要素が見えないんだ。だから今日のうちに言っておきたいことがある。俺の高校野球は明日で終わる。明後日から矢吹君。君が青雲野球部のキャプテンをやってくれ!」
 いつになく真剣な青木の眼差しに矢吹も驚いた。どこか弱気で言いたいことも言えずにいるキャプテンが、こんなにはっきりと物を言うことはない。
 「俺ですか?どう考えても、このチームの中心は江口ですよ。キャプテンは江口だと皆が思っているはずです」
 矢吹は断ろうとしたが青木は遮った。
 「いや!青雲大付属高校野球部の技術的なリーダーは江口君かもしれない。しかし精神的支柱は君だ!君がキャプテンになった時こそ、この野球部は完成する。そして由良明訓高校打倒の夢を果たすことだろう」
 「いやぁ…俺なんか、そんな大物じゃないですよ」
 「正直に言う。二年生の時に僕は君が野球部に入ってくるのが嫌だった。岡部先輩も余計なことをしなきゃいいのに…と思ったぐらいだ。自分で言うのも変だが真面目一筋で来た僕には君は怖かった。だけど君は野球初心者なのに江口君の剛速球に食らいつき、決して諦めず痣だらけになりながらキャッチャーになった。僕達の気持ちを動かしたのは君の努力と意地のようなものだった。不良少年の気持ちは僕には一生分らないかもしれない。だけど矢吹正という存在がヒトを動かす魅力を持っていた。それは不良達も僕達も同じなんだ」
 青木の熱い言葉に矢吹は頭を搔きながら、頷いた。
 「俺はただ、何かに熱中した後に飽きちゃって空っぽになっちゃうんですよ。そんな空っぽの時にね。江口って面白い次の目標と出会えた。だから俺こそ自分のことしか考えてない勝手なヤツなんです。でも、そんな俺でいいんなら、やりますよ。でもねぇ。まだ青木キャプテンの仕事は終わっちゃいない。最悪でも明日。最高なら明後日の決勝戦までキャプテンでいてもらわないと俺たちは困るんだ」
 「僕だって、そのつもりだ。ただ僕としちゃ時期キャプテンを矢吹君に指名しておかないと、なんか居心地悪くて明日の試合に集中できそうになかったんだ。ありがとう!矢吹君」
 
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

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