第87話 二度目の夏編●「主将を託す」
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「僕たちの前の試合が由良明訓高校だったんで、やはり意識していないとは言えないです。でも松山第一高校の選手たちはバッティングが良いんで一人も油断できないと思って投げたら、結果がこうなっていただけです」
敗戦したチームへの賞賛する、いささか優等生過ぎるコメントに捕手の矢吹は苦笑していた。
「江口も役者になってきやがったな。あいつが見ていたのは由良明訓だけだ。連中の人気からして試合が終わっても、すぐには球場から出ない。ましてや次が俺たちの試合じゃ、球場のどこかで観戦してるに決まっている。四番キャッチャーに戻った田山。それに里中と浜に自分の力を見せつけるつもりだったんだ。織田監督は、ここからは連戦だから飛ばし過ぎるな…と注意されてたが、飛ばしちゃいません…の一点張りだ。まぁ燃えている江口は、さすがに迫力あったけどよ」
矢吹の爽快な表情に比べキャプテン青木の顔は複雑な表情だった。
「そりゃ江口君の体力は僕らからすれば超人的だけど、去年は一回戦負け、選抜は準々決勝まで三戦目で連投はしていない。もちろん負けたら意味はないのは僕も判っているけど、完全試合の翌日に由良明訓との準決勝で球威は落ちないのかな?」
「まぁ…織田さんも明日はまだ勝てないと思ってるんじゃないかな?だから二点リードしたところで滝に投げさせなかった。むしろ完全試合という記録を作らせておいたと俺は思うね。確かに由良明訓みたいに四点ぐらいリードして里中から浜にピッチャーをスイッチするのは良い戦法だ。だけどよぉ。滝や黒沢が入って打線が強化されたって言っても、俺たちは松山第一から五点取れるような強力打線じゃねぇ。やっぱり、まだ江口あっての青雲なんだよ」
「そうだよなぁ。もし江口君が入って来なかったら、俺が甲子園に三回も来ているってことはないよなぁ。毎年のように予選の二回戦ぐらいで負けて、野球を辞めて予備校にでも通っている夏なんだよなぁ」
「でも青木先輩は、よくやってくれたよ。俺や江口がいてキャプテンなんかやりにくかったと思う。努力で三番ファーストを守り通した尊敬できる先輩だよ。勉強面だって学内でも十番以内。野球部じゃぶっちぎりのトップ成績だ!」
青木は思わず涙ぐんだ。最初は江口や矢吹を疎ましく思っていた。進学校の弱小野球部だって構わない。小宮、岡部ら先輩達と仲良く野球ができればよかった。僕たちには僕たちの身の丈ってもんがある。甲子園に出場しプロ野球で活躍するような夢がなくても高校野球をやったっていいじゃないか?という身の丈だ。
そこに間違って迷い込んできたような怪物ピッチャー江口敏。裏では「あいつは来る高校を間違えている」と陰口を叩いた。青木自身が、その一人だった。打つどころか誰にも捕れない江口の剛速球を捕れるかもしれない…そんな憶測で入ってきた矢吹正。この矢吹の入部も誘い込んだ岡部以外は眉をひそめた。
噂では不良グループのリーダー。ヤクザやチンピラとも交際している矢吹は江口以上に間違って迷い込んできた新入生だった。しかし中学柔道で全国制覇した運動神経。名古屋の暴力団員も一目置くクソ度胸。一度、目標を見つけた矢吹の一途な努力。不良グループを束ねる統率力には驚いた。江口は野球選手としての技術や体力は凄いが統率能力はあまりない。
この二人によって弱小野球部には夢にも出てこなかった甲子園が見えてきた。レギュラーから外れた三年生は「一日も早く受験勉強を始めたい」と言って退部する者もいたが、大半の部員は「甲子園出場なんて補欠でも、なかなか経験できん。高校時代の最高の思い出になるぞ」と言って付いてきた。その原動力は江口よりも矢吹の存在だったかもしれない。
青木の脳裏に、そんな思い出が蘇った。
「冷静に考えて、僕らの力では明日の由良明訓には勝てないと思う。もちろん負けるつもりで試合をする訳じゃないが、勝てる要素が見えないんだ。だから今日のうちに言っておきたいことがある。俺の高校野球は明日で終わる。明後日から矢吹君。君が青雲野球部のキャプテンをやってくれ!」
いつになく真剣な青木の眼差しに矢吹も驚いた。どこか弱気で言いたいことも言えずにいるキャプテンが、こんなにはっきりと物を言うことはない。
「俺ですか?どう考えても、このチームの中心は江口ですよ。キャプテンは江口だと皆が思っているはずです」
矢吹は断ろうとしたが青木は遮った。
「いや!青雲大付属高校野球部の技術的なリーダーは江口君かもしれない。しかし精神的支柱は君だ!君がキャプテンになった時こそ、この野球部は完成する。そして由良明訓高校打倒の夢を果たすことだろう」
「いやぁ…俺なんか、そんな大物じゃないですよ」
「正直に言う。二年生の時に僕は君が野球部に入ってくるのが嫌だった。岡部先輩も余計なことをしなきゃいいのに…と思ったぐらいだ。自分で言うのも変だが真面目一筋で来た僕には君は怖かった。だけど君は野球初心者なのに江口君の剛速球に食らいつき、決して諦めず痣だらけになりながらキャッチャーになった。僕達の気持ちを動かしたのは君の努力と意地のようなものだった。不良少年の気持ちは僕には一生分らないかもしれない。だけど矢吹正という存在がヒトを動かす魅力を持っていた。それは不良達も僕達も同じなんだ」
青木の熱い言葉に矢吹は頭を搔きながら、頷いた。
「俺はただ、何かに熱中した後に飽きちゃって空っぽになっちゃうんですよ。そんな空っぽの時にね。江口って面白い次の目標と出会えた。だから俺こそ自分のことしか考えてない勝手なヤツなんです。でも、そんな俺でいいんなら、やりますよ。でもねぇ。まだ青木キャプテンの仕事は終わっちゃいない。最悪でも明日。最高なら明後日の決勝戦までキャプテンでいてもらわないと俺たちは困るんだ」
「僕だって、そのつもりだ。ただ僕としちゃ時期キャプテンを矢吹君に指名しておかないと、なんか居心地悪くて明日の試合に集中できそうになかったんだ。ありがとう!矢吹君」