第195話 栄光の片隅で●「休み肩」
文字数 2,488文字
四月の骨折も、ほぼほぼ癒えて江口は二軍のブルペンに戻ってきた。一ヶ月以上、ろくすっぽトレーニングしていない江口は軽く肥満気味の体形になっていた。精神が不安定になると食べて紛らわそうとするタイプなのだろう。夜中に寮の冷蔵庫を漁る癖も休養中に酷くなっていた。
黒岩二軍監督と中川投手コーチは顔を見合わせて「こりゃダメだ」と諦めた。動きを見ていても身体のキレが悪い。ランニングを見ていても鈍足に近いレベルにタイムを落としている。肝心の江口本人が「もう、どうでもいい」「シーズン終わればクビでしょう」と周囲に漏らしている。投手としても失格。打者も失格。プロ野球選手に執着する情熱も失っている。
ところが投球練習を始めた江口のボールを見て黒岩も中川も目を丸くした。唸りを上げて豪速球がズバンと決まるのである。その代わり外角低めを突く絶妙のコントロールは失われていた。
「こりゃ…よくある休み肩ってやつかね?中川君?」
「そうとしか言えませんな…監督。しかし怪我の功名とは、よく言ったものです。コントロールは失ってしまいましたが、逆に言えば外角へのコントロールにこだわり過ぎたのが江口君の欠点で、バッターは死球を怖がらずに踏み込んで行けた。この荒れ球なら、そうはいかない。スピードも前より上がってますよ」
「そうだのぉ。全盛期の金山を思い出すわ。おっしゃ。中川君は、このまま江口をいじるな。次のロビンス戦で先発させるわい」
当の江口自身は全く納得していなかった。以前なら思ったコースにストレートも変化球も決まった。ところがカーブもスクリューボールも少ししか変化しなくなったと思ったら、次には曲がりすぎるほど曲がったり、どうにもコントロールできない。基本のストレートさえ高く浮いたり、左右に外れたりする。それに重くなった身体。身体中に密着するユニフォームの着心地の悪さ。全てが自分の思う通りに行かなくなっている。
しかし不思議なことに黒岩二軍監督も中川コーチも「これでいいんだ。二軍戦で結果を出せば一軍昇格も近い。今年の一軍は投手陣が総崩れだ。頼むぞ!」と上機嫌である。相変わらずバッターの内角を狙うボールは投げられそうにない。こんな状態でマウンドに上がれるのか不安だったが、監督とコーチが投げろと言っているんだから投げればいいと考えていた。
「僕は、まだ二十歳。いくらでもやり直しは出来る」と考えるのが最近の江口の思考パターンになっていたのである。
多摩川球場で行われた東京ガイヤンツ対松映ロビンスの二軍戦。江口にとってはリベンジマッチというところだが、黒岩監督の思惑とは裏腹に江口は普段通りにアクビなどしている。それもそのはず、一年前に「どうせ江口は内角には投げられない」と欠点を暴露した土井は一軍に定着。ピッチャーの湯本は、このシーズンから近畿リンクスに移籍。村野捕手兼任監督の手によってリンクスのエース級に急成長したのである。
土井、湯本がいなくなったロビンス二軍ナインだが、別の意味で燃えていた。まだ正式発表はされていないが松映映画会社は今シーズン限りでロビンス球団の身売りを決めていた。戦後、日本の娯楽として集客した映画は家庭用テレビによって、かつての集客は望めなくなっていた。松映のお家芸と呼べる任侠映画やお色気時代劇映画も勢いはない。ましてやパシフィックリーグの首位打者常連の大本のような年棒の高いスター選手を抱え、これ以上の球団経営は無理と判断した。
すでに高度成長により高騰した土地価格で急成長した京楽ホームが松映ロビンスの買い手に決まっている。京楽は球団経営に携わる部署を新たに新設。一軍二軍全ての試合に背広組が顔を出すようになっていた。これは選手にとって死活問題である。なにせ、これまでプロ野球球団経営などやったことのない素人が選手を判断するのである。彼らの前で不甲斐ないプレーを見せればシーズン終了後の「整理要員選手」としてトレードや解雇が待っているのだ。
試合開始直後、ロビンスのナインは舌なめずりした。すっかり肥満した江口敏が窮屈になったユニフォームで不恰好な投球練習を始めたからだ。甲子園を沸かせた剛球左腕のイメージは、もはや皆無。その顔つきからも、やる気のなさが伝わってくる。
ところが試合が始まると青ざめたのはロビンス側であった。かつてストライクゾーンの外側だけを狙ってくるコントロールは、どこへやら?江口自身は、しきりに首をかしげているがボールの行方はボールに聞いてくれ!と言わんばかりの雑なピッチングである。外角狙いで踏み込んだバッターは次の瞬間、当たったら殺されそうなストレートが内角に飛んでくる。避けたボールがストライクに判定されたり、大きく外れたボールで空振りを取られたり、散々な目に遭うはめになった。
出したランナーは四球と暴投による振り逃げによる出塁だけ。七回までノーヒットノーランの好投を続けている。黒岩、中川はもちろん。ベンチの中でも江口のピッチングは絶賛された。一時期は匙を投げ江口とは絶縁状態だった大西は
「怪我して太って生まれ変わったピッチャーは江口ぐらいだな。だいたい速球投手なんてのはコントロールは悪いもんよ。今までが変なんだ。これからは野性のピッチャーでやってけよ」
と変な激励を飛ばす。里中も
「今日はリリーフの必要はなさそうだな。江口!だいぶ足が遅くなったようだから、もし塁に出たら俺が代走で走ってやるよ」
と冗談交じりに声をかけた。打撃陣も江口の変な好投に刺激され、ロビンス投手陣を攻略。三点差でリードした。
終盤にポテンヒットを打たれてノーヒットノーランは逃したものの、終わってみれば十三振と十二四球で見事な完封勝ちとなった。