第30話 甲子園編●「迷いがないヤツ。迷うヤツ」

文字数 1,281文字

 一死、三塁ランナーは馬場。一塁ランナーは土井。そして打席には四番田山三太郎。岐阜青雲大学付属高校は1点リードしながらも最大のピンチに陥っていた。田山の表情は変わらない。まるでこの場面が特別な場面とも思っていないようだ。四回の右打席ではなく、普段通りに左打席に入った。競技は違ってもスポーツ選手として突出したレベルを経験している矢吹はマウンドに駆け寄る。
 「連中、全く迷いなく内側に踏み込んで打ってきている。岩城、馬場、土井の全員だ。江口が内角には投げ込めないのを連中は判っている。田山は本来が左バッターだ。四回の右打席は江口の癖を確かめるためだ」
 「矢吹君。判っていたよ。凄いバッターだね。彼こそ天才だよ。たぶん右打席で打っても相当巧い。里中が羨ましいよ。朱美さんに応援されて…あんな凄いキャッチャーとチームが組める」
 「何お人好しなこと言ってるんだ。江口のコントロールなら大丈夫だ。ブツけやしない。少しスピードを殺してもいいから田山の胸元をえぐるようなボールを投げるんだ!この回を無得点で抑えたら俺たちの勝ちだ。捕りにくいかもしれないが、俺の反射神経を信じろ!かならずミットで止めてやる」
 江口は少し俯いた。
 「努力はしてみるよ。でも内角に投げないうちに投げられなくなっちゃったんだよ」
 「投げられない…だとぅ?」
 「僕だって外角だけで、こんなチームに勝てるとは思ってないよ。五回から頑張って内角を狙っているんだ。でも駄目なんだ。誰かが怪我をするとか、一つ間違ったら命を落とすと思うと、それを見たくないんだよ。どんなに内角を狙っても無意識に軌道修正している。ボールは真ん中辺りに行ってしまうんだ」
 「一球でいいから、速球を田山の胸元に投げられれば由良明訓の連中も焦るはずなんだ。もし田山勝負は怖かったら敬遠して五番の石山で勝負でもいい。石山以降は怖いバッターはいない」
 「いや!僕は田山と勝負するよ!この一分の隙もない男に打たれても悔いは残らない。彼を敬遠して逃げ切ったら、僕は後悔する!」
 「それでいいぞ!江口!」江口と矢吹が気付くと、いつの間にか小宮、岡部、青木ら青雲ナインがマウンドに集まっていた。小宮が代表して言った。
 「江口。それに矢吹。君たち二人が来なかったら、僕たちは甲子園でテレビに写ってない。三年生は予備校の夏期講習に通っている頃だ。僕たちは甲子園に出たことで受験勉強が遅れたとは思わない。こんな凄い経験をした僕たちが他の受験生に負ける訳がない!何年か先に江口や田山がプロ野球で活躍しているだろう。僕たちは会社員とか公務員とかになっていても同僚に自慢してやるよ!僕らは、この凄いピッチャーの後ろで守ったんだ!あの凄いバッターと対戦したんだってね!だから江口!全力で投げろ!」
 一塁ベースから一部始終を見ていた土井は小宮の激によって青雲ナインが生き生きと輝き出したのを感じた。
 「進学校の野球部キャプテンだと舐めていたけど、なかなかどうして!いいキャプテンじゃないか!俺もキャプテンとしてやるべきことをやった。アイツもやるべきことをやった」
 
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

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