第70話 春風編●「密会」

文字数 2,770文字

 由良明訓高校野球部の土井監督が大阪市繁華街の喫茶店に入っていった。サングラスにハンチング帽の怪しい男が土井に気付いて手招きをしている。土井には、すぐ分かった前任監督であり、現在は岐阜青雲大学付属高校野球部監督の織田である。土井は深々とお辞儀をした。
 「監督。ご無沙汰しております」
 「この馬鹿野郎。せいぜいサングラスぐらいして来い。お前は、もう普通の高校生じゃねぇんだぞ!松映ロビンスのドラフト指名を蹴っ飛ばして母校の監督なんぞやってる酔狂な若者なんだ。あの準々決勝は世紀の凡戦なんて呼ばれてるが、凡戦ならいい方で八百長試合なんて記事まで出てやがる。お前も見たろ?純真な高校野球まで黒い霧か?なんてよぉ。もっとマスコミの連中を警戒しろ!江口や矢吹の方が、まだ利口に立ち回ってるぜ」
 「全く、もう酷い言われ方ですよ。凡戦どころか手に汗握る勝負でした。さすがは監督です。一瞬のミスが命取りになる凄い作戦でしたよ」
 「おだてるんじゃねぇや。それより土井!改めて言うが夏春連続優勝おねでとう!あそこまで徹底してディフェンスされるとは…土井采配もなかなかなもんだ。田山達がいる間は五大会連続優勝のチャンスもある。国体も入れれば七大会制覇の偉業達成もありうるな」
 「織田監督が続けていれば確実に連覇できたでしょう」
 「馬鹿野郎。俺が采配らしい采配したのは夏の大会の一回戦、岐阜青雲大学付属高校戦だけじゃねぇか。他の試合じゃサインを出しているフリだけはしておいたが、勝手にしろ…自分で考えろ…のサインしかなかったじゃねぇか?あんな楽な全国制覇はなかったぜ」
 土井は、ここで少し笑った。決勝戦が終わった夜に旅館に言付けを伝えられた時は不安しかなかった。織田が由良明訓高校監督を辞任してから土井と会うのは初めてのことだ。織田は旅館に「豊臣」と偽名を使って時間と場所を指定してきた。「豊臣」が「織田」であることは想像がついたが、全くの別人である可能性もあり、それだけは不安だったのだ。
 「織田監督…いや…織田さん。教えて欲しいのは織田さんが僕らの監督を辞めて青雲大付属の監督になったことを話してくれますか?」
 「あぁ…夏の大会で俺の気持ちは辞任に固まってたんだ。お前らに指導することは一つもなくなってた。予選までは冷や冷やしてたがな。里中がピッチャーで固まってからは負けることは考えられなくなった。田山、岩城、馬場、里中が卒業するまでは勝ち続けられる。でもよぉ。監督として、そんなの面白くもなにもねぇじゃねぇか?だから強くなり過ぎたお前らをブッ倒せる学校なら、どこでもよかったんだ」
 少し土井は考えた。執拗なバント攻勢。江口投手の速球派から軟投派への転身。これらは、ある優秀な指導者が青雲に就いたことは想像できた。しかし、その指導者が織田だとは想像していなかった。その采配は明訓時代と正反対だったのだ。
 「青雲側から織田さんに監督要請があったのですか?」
 「まぁな。正確に言やぁ江口の親父さんに頼まれたのよ」
 「例のノンプロの名投手っていう江口敏のお父さん?」
 「あぁ…俺がノンプロの中部電機にいた頃に都市対抗で江口のいた東日本工業と対戦してんだよ。当時は挨拶ぐらいしかしてねぇけど、悪い印象はねぇ。江口の親父さんもいい選手だと思ったね。最初は、あのメガネの天野先生には辞めてもらって俺に後を頼むって話だったんだが、俺は天野さんと一緒に采配したかったんだ。だから俺からの条件は監督は俺でいいから野球部顧問は天野先生を続けさせるって一点だった」
 「良い判断だと思いますよ。僕も調べてみたんですけど青雲大付属が弱小野球部ですが、江口君や矢吹君が入る前から予選での一回戦負けはほとんどない。そこそこ強いチームにも勝ってたりするんです。力は無くても最初から頭脳のチームだったんです」
 サングラスの奥の織田の目がキラッと光った。
 「俺が見込んだだけのことはある。土井。悪い意味で取るなよ。何も明訓が馬鹿だって言いたい訳じゃない。ただ野球部から東大に合格する部員なんぞ、いた試しはないだろう。青雲は、そういう奴らがゴロゴロしてるチームなんだよ。野球でもサッカーでもいい。点取りゲームってのは両チームにミスがなければスコアは0-0になるものなんだ。それを連中は頭で理解できている。お前らは違う。力で相手を押し潰すチームだ。だから俺の仕事は予選までだった。練習試合を繰り返して適材適所に選手を嵌めれば、それでいい」
 「守備練習とバントだけやっておく、どこかで相手がバント処理をミスしたら、そこを付け込む戦法でしたね。案の定、岩城が九回に悪送球した。青雲の得点チャンスは、あの九回表だったはずです」
 「その通りだ。ただ、お前のディフェンスには脱帽したぜ。常識で考えれば馬場にバント処理を任せるはずだ。岩城よりも馬場の方が守備は確実だからな。ところがお前は俺がバントに徹すると判断して岩城にバント処理をさせた。馬場だと後半に疲れからミスを出す恐れを考えた」
 「図星ですね。岩城の体力は高校生としては圧倒的です。僕も確実に守れる馬場を前に出そうかと思いましたが、体力の違いで岩城にしました。最後にミスしちゃいましたが…」
 「そこで田山に救われたって訳だ!ピッチャーに返球するふりしてファーストに投げた。一塁ランナーは青木だったか!一歩だけリードしたところをタッチアウトだ。次は四番の矢吹だったが一球も投げずにゲームセットだ。あの試合、俺は江口に田山とはまともに勝負させなかった。全ての打席で敬遠させたようなもんだ。田山の野郎は打てない分は守りで取り返した。全く、とんでもねぇ野郎だ」
 一塁走者タッチアウトによるゲームセットは準々決勝の凡戦ぶりや八百長疑惑を呼ぶ結末だったが、グラウンドにいた者だけが判る戦慄のスーパープレイだった。事実、プロ球団のスカウト達はキャッチャー田山の怪物ぶりを、より高く評価したのだ。
 「もう一つ疑問があるんですが?矢吹君は確かに凄い運動能力を持っています。僕から見てキャッチャーとしては、どんどん成長していると思います。だけどキャッチャーとしての成長に精一杯でバッターとしては追いついていない。江口の方が強打者です。なぜ矢吹を四番。江口を五番の打順にしたのですか?」
 「いくら俺でも、この選抜大会で由良明訓に勝てるとは思ってない。負けるにしても後に繋がる負け方をすることだ。だから矢吹には四番打者という自覚を持たせるための抜擢だな。さすがに半年ちょっとで四番キャッチャーを育てるのは無理だが、次の夏、次の冬には矢吹を主砲にせにゃならんのだ。その時に由良明訓の連勝記録を止め、俺たちが優勝する!頑張れよ!土井。俺が倒す前に負けやがったら。ブッ飛ばすぞ!」
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登場人物紹介

里中繁雄●本稿の主人公。野球選手と思えない痩身に芸能人も顔負けの美少年。サイドスローの技巧派投手。性格はルックスに反して強気で負けず嫌い。投手兼任外野手として活躍した後にノンプロ全丸大に入団。

江口敏●もう一人の主人公。ノンプロ野球選手だった父親に英才教育を受けた剛球左腕投手。童顔に逞しい身体を持つが闘争心はあまりなく、気は弱い。三年生の夏の甲子園で優勝投手となり、ドラフト一位で名門東京ガイヤンツに入団。

田山三太郎●里中のピッチャーとしての才能を見出した天才キャッチャー。打撃も凄まじくプロ野球のスカウトに注目されている。甲子園大会の通算本塁打記録も作り、ドラフト一位でパリーグの福岡クリッパースに入団。

岩城正●田山とは中学時代からチームメイトだった巨体の持ち主。三振かホームランという大雑把な選手だが怪力かつ敏捷さもあり、プロレス界が注目する逸材との噂はある。三年時にはキャプテンも勤め、そのリーダーシップは評価された。ドラフトでは江口の外れ一位ではあるがパリーグ近畿リンクスに入団。

馬場一真●田山、岩城と三羽烏と呼ばれた好打好守好走のセカンド。田山、岩城ほどのパワーはないがスピードと技術は最高。変わり者である。実は東京ガイヤンツから入団交渉を受けていたが野球の道は高校までと決めており、帝国芸術大学に進学する。

矢吹太●中学時代は将来オリンピック選手として期待された柔道の猛者でありながら、地元の不良や街のチンピラに慕われる奇妙な不良少年。江口の才能を認めキャッチャーへ転身する。高校時代は事実上のチームリーダーを務め、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ入りは拒否。

朱美●矢吹の不良仲間で少女売春をやっている。根はマジメ人間で肉体を汚しつつも気持ちは美しい。江口に惚れられながら、自身は里中に惹かれていく。彼らとの交流を通して自分を変えるため、名古屋のデパートに勤める。

土井●里中ら一年生の時の三年生の主将。高校ナンバーワンのキャッチャーであり、女生徒に人気の男前であったが、田山にポジションを奪われ里中に女性人気を奪われる気の毒な先輩。しかし潔く後輩を立てる姿に人望を集めた。織田監督辞任後に新監督に就任。

織田●里中ら野球部の監督。かなりいい加減な人物だが選手の力量を見極める鋭い視点や実践形式でチームを育てる采配など有能な指導者。甲子園で優勝させてチームを去る。その後、江口の父親との縁で江口らの監督に就任。

天野●江口ら野球部の顧問。優秀な数学教師で弱小チームといえども独自の数学理論で一回戦ぐらいは勝たせる手腕を持つ。

小宮●江口ら一年生の時の三年生で主将。江口の入学で控え投手兼任外野手に転身するが江口らの理解者。

岡部●三年生の捕手で副主将。江口の実力を発揮させるために中学時代の後輩でもある矢吹を野球部に引き込んだ。

新山●静岡工業高校のエース。左腕の本格派として江口と比較される。英才教育を受けお坊ちゃんの江口に対して韓国籍による差別や貧乏に耐え抜いた。定時制から全日制への転入で年齢は里中、江口らより一つ上であり、江口に対してライバル心を燃やす。外国人枠で逸早く東京ガイヤンツに入団したが、怪我に悩まされている。

谷口●土井キャプテン引退後の新キャプテン。ともかく真面目で常識的な高校生。里中らが一年生の時には7番レフトで地味ながらチームを支えた。

青木●小宮引退後の新キャプテン。江口らが一年生の時には一番一塁手として出場。少し気が弱いが野球は大好き。学業の成績もいい。

ヨーコ●名古屋繁華街の組織の女の子。朱美の留守を守る。江口の相手をしたことがきっかけで江口の相談役となる。朱美が売春組織を辞めてデパートに就職したことに触発され、料理人の道を目指す。

夏美●中学時代から高校へと続く岩城の恋人。女子ソフトボール部の実力者。中学時代の里中を知っており、田山や岩城に、その才能を伝えた。甲子園球場周辺で朱美と知り合い友人になる。

黒沢秀●江口、矢吹の一学年下の新入生。抜群の運動神経と野球経験を持ちつつ、学科成績も優秀。レギュラーに抜擢される。

滝一馬●黒沢と一緒に好成績を収めた新入生。投手経験もあり江口に次ぐ青雲の投手になる。

内川亜紀●中学時代から矢吹のクラスメイト。不良少年の矢吹を嫌って避けてきたが、野球にのめりこみ無口になっていく矢吹の姿に惹かれていく。

浜圭一●里中と勝負するために明訓野球部に入ってきた新入生。右のオーバースローで速球派。生意気な性格は、そのままだが里中と並ぶ二枚看板投手に成長する。

池田●浜とは対照的に真面目で純情な新入生。田山を尊敬して入部。小学生に間違えられる小さな体だがキャッチャーとしての技術は高い。

八木●プロ野球界とアマチュア野球界を取り持つフィクサー。怪しげな人物だが常に選手のことを考えている温かい人物。

大田黒●ロシア系とのハーフであるため殿下と呼ばれる森沢高校のエース。実力は疑問視されながらもプロ入りを果たす。

二本松●里中達が三年生の時に入部してきた新入部員。不細工な顔と不恰好な体格だが投手としても打者としても素晴らしい才能を持つ。田山、岩城、馬場の中学時代の後輩であり、先輩達を高校まで追いかけてきた。

加藤弘●愛徳高校野球部員。不良学校の悪だが野球だけは真剣にやる。高校時代は由良明訓に敗れるが、その時の活躍で全丸大のノンプロチームに入団。左投げ左打ちの一塁手。

中間透●加藤と同じ愛徳高校野球部員。加藤よりも明るい性格だが相当の不良でもあった。甲子園では由良明訓に敗れたものの加藤と一緒に全丸大に入団。右投げ右打ちの三塁手。

高山志朗●全丸大のエース。里中よりも二歳年上で一年生の時の夏の甲子園では対戦はないものの出場していた。剛速球の持ち主だが四球で自滅する敗戦が多く、プロからの打診はあっても入団拒否をし続けている。後に里中に触発されて宝塚ブレイブに入団する。

湯川勝●江口らがプロ一年目で苦闘する71年。栃木県の柵新学院の進学クラスに突然現れた怪物ピッチャー。アマ、プロ球界を引っ掻き回す裏主人公。

湯本武●高校時代は甲子園出場を決めながら不祥事による出場停止。大学では四年時に監督との大喧嘩で退部。里中の入団拒否の代替でロビンスに入団。悲劇のピッチャーと呼ばれているが、明るく柄の悪いインテリヤクザ。

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