第二十章 第二節 なつやすみ(中)

文字数 3,823文字

「阪神のチケット、もろてきたったぞ!」
 そう言い放ったのは、会社から帰ってきたタカユキだった。読売新聞の販売店から阪神甲子園球場の試合の観戦チケットをもらった知り合いに、チケットを譲ってもらったという。だから阪神タイガース対読売ジャイアンツつまり阪神巨人戦。もちろんのこと試合は高校野球から外れている時期である。
 ジャイアンツ戦のチケットを販売促進用に配るのは、読売新聞の常套(ジョウトウ)手段だ。新規購読を勧誘するときや、購読継続を求めたりするときにも、新聞販売店つまり新聞配達をしている業者がモノで釣るのは、普通に行われていた。洗濯用洗剤なんかがよくあったが、読売新聞ならば巨人戦のチケット。ジャイアンツ球団を所有している読売新聞社と、販売店と、別々の企業なのだが、販売促進つまり販促用にチケットが販売店に渡るのだろう。内情は知らないが、なんとも言いがたいものである。
 ともかく、タカユキがどこかから阪神巨人戦のチケットを入手してきて、家族を試合観戦に誘った。チケットはもらいものなのに、態度はいつものように偉そうだ。

 ただでさえ阪神タイガースの甲子園観戦チケットは大阪では大人気なのだが、リーグ優勝するかもしれないという(まれ)な年なのでなおさら入手困難。そんなだったから、大それたことである。
 試合の日に向けてフワフワ浮ついた気分で、応援の準備。応援グッズを買う。黄色いメガホン、ミユキは、白地の縦じまユニフォームを模した服を買ってもらった。なお、こういう服は観戦に行くとき専用なのではなくって、もともと普段着レベルの服で、室内着だとかテレビ観戦するときだとか、さらには寝間着(ねまき)として着るようなものである。ちなみにタイガースの野球帽はもともと買ってもらって常用にしている。

 当日。中谷(なかたに)家三人は、甲子園に行った。試合はナイターである。正しくはナイトゲームというのだが、当時なんてなおさらに日本の誰もが「ナイター」と呼んでいた。小学一年生のミユキには、この試合の帰りとなると遅いけれど、この日は特別。
 三人で駅から甲子園球場に向かうあいだに、ジェット風船を買う。買い忘れていた。「現地調達でええやろ」と、父親がのんきだったから。阪神タイガースの応援は、七回のタイガースの攻撃の直前にスタンドのファン達がジェット風船を飛ばすのが恒例行事。ジェット風船というのは、ふくらませた空気が吹き出る勢いで飛ぶ、飛ばすための風船のことである。細長い風船。飛ばす直前にふくらませておいて、その風船の口を指ででもふさいでおき、飛ばすときに手から離せば飛ぶ。口のところが笛になっていて、音が出る。応援するためにジェット風船を飛ばしているというよりむしろ、ジェット風船を飛ばさないと来た意味がない、飛ばしたくて来た、そんなくらい、人間というのはこういうことに目がない連中である。お金を払って興行(コウギョウ)を観て、「お約束」にありつければ満足する。
 それで買うはずなのだが、球場に向かうあいだにも、途中の道すがらに露店がワンサとひしめいている。飲食物も売っていないわけではないが、おおよそはタイガースのグッズ。ただし、こういうところで売っているのは「パチモン」すなわち正規のライセンスを受けていない贋物(まがいもの)だらけ。――今はともかく当時はそういうものだった。いや、今でも鶴橋(つるはし)とか行けばその手のブランド品が売られているのはめずらしくないらしいが。――
「それでエエやろ」
 タカユキはケチなもので、パチモンでも気にしていない。ジェット風船ならばなおさら、飛ばして()くなってしまうモンなら、わざわざ公認のモンなんて買わんでもエエやろ…………。
「あかん。ニセモンはイヤや」
 球団公認のやつは高いけど、それは球団にお金が入ってるからで、それでタイガースの応援になってるし、ほんで選手のためにもなる。ミユキは母と同じように潔癖(ケッペキ)で神経質、それに世のなかのルールに違反しないよう、なんだかいつもなにか――というか人間社会を、怖れていた。
「おまえも頑固(ガンコ)やなぁ」
 そんなミユキに父親は、あきれる。そして少しイラだつ。いつものことだった。
 それでもジェット風船なんだから、たかがしれている。なのでタカユキは、球団公認の、タイガースの立派な印刷の入った台紙に付いたジェット風船を買った。

 球場に入って、いまさらのことながら肝心なことに気がつかされた。
 読売新聞のチケットなので、観客席つまりスタンドはジャイアンツ側。兵庫県の西宮、阪神甲子園球場。敵地にまで来るファンに、大阪だとかに住むファン、なにせジャイアンツファンなので数は多いうえに、タイガースの地盤で()まれながらもファンやっているのだから気合いが入っている。筋金(すじがね)入り、生粋(キッスイ)の巨人ファン達。
 そんななかで中谷家一行は完全に浮いていた。ミユキなんてタイガースの縦じまの服装をしている。強烈な白い目で見られる。気まずい。かといって、座席は決まっている、ほかに行けるところはない。外野席。バックスクリーン、大きな大きな表示板の反対側には、タイガースファンでひしめきあっているというのに……。違反ではないが、今夜一試合、時間中ずっと、この居心地のわるいところで過ごしつづけなければならない。なんでこんなチケットもらってきたんや……。うらめしく思った。
 テレビでなじみの甲子園球場も、現地の外野スタンドから観ると小さくて、なにがなんだかよくわからない。
「バースかっとばせバース! ライトへレフトへホームラン!」
 さかんに応援しているファンだとかも、遠く向こう側、点のよう。演奏にしても迫力が届かない。

 試合は――ボロボロ。
 ジャイアンツにコテンパンに打ち込まれる。どうしてだか阪神タイガースはいつも両極端。この日は全くダメ。序盤から総くずれで、あれよあれよと一方的に得点される。タイガースはほとんど点を返せない。
 あまつさえ、ジャイアンツの攻撃中。打球のひとつが、ミユキのいる近くまで飛んできた。そのボールが、近くのジャイアンツファンの家族の子の持つメガホンにスポッ!
 入りました、ホームランです!
 感激で、のたうち回るように騒ぐその一家。
 そしてそれを目撃したタカユキも「アレはエラいもんやな」珍しいもん見さしてもろた、と面白がっている。もう爆笑。阪神はボロボロなのにもう、応援する気も失せているようだった。
「不思議なこともあるもんですねえ」ケイコが静かに調子を合わせる。
 なんもおもしろいことあらへん、ミユキは思った。

 球場に来たからには、フランクフルトとか食べる。タカユキはビールを一杯ひっかける。そんなレジャーっぷりをよそに、試合は点差がどんどん開いていく。
 五回くらいになって。
「もう負けやろ。はよ帰ろか」
 阪神がボロ負けしそうなのを見て、キゲンを損ねたというよりももう、あきれてあきらめて、タカユキはやけに帰りたがりはじめた。
 みずからチケットを調達して観戦を誘っておいて、早く帰ろうだなんて、おかしい。
「イヤや」さすがにミユキは抵抗する。いくらすぐ腹をたてる父親が相手でも、公衆の場ではさすがに手までは出さないだろう、アタマの(すみ)っこにはその計算もあった。野球は最後の最後までわからへん。勝っても負けてもちゃんと応援したかったというのもあるけど、責任をもって最後まで見届けたかった。それに、甲子園に観に来ることは滅多にないのに、中途半端に帰るなんて。ジェット風船も飛ばすんや。せっかく買っておいて飛ばしもせず、まるごとみすみす記念品として持って帰るなんて、あまりにもみじめ。だから――
「そろそろ帰ろか」六回。
「まだラッキーセブンがある」ミユキは引き下がらない。

 ラッキーセブンのジェット風船は、いわばお祭り騒ぎである。ジェット風船の準備からしてあわただしい。手もとからぬけでた風船が早くも飛んでいったりだとか、さらには風船を(ふく)らませすぎて割ってしまう人までいる。音楽が終わるタイミングに合わせて飛ばすのに、フライングをする人が必ず出る。そして。タイガース側のスタンドは色とりどりの風船が舞い散る。
 ピュー、ピュー。ピュー。
 まともに飛ばずに地面に向かって突き刺さる風船だとか――。
 それに比べればミユキのいるジャイアンツスタンドは、風船を飛ばす人が少なめで閑散としていた。そんななかで意地でも飛ばしたジェット風船は、それほど高く遠くまではいかなかったけれど、ヒュルヒュルと飛び上がってそして、同じスタンドの前方に、ポトン、と落ちた。
「おぅ。満足したか」
 うん。
「よかったね」

 この日は、ラッキーセブンも、ダメだった。
「よし、帰るで」
 不服そうなミユキ。座席から離れようとしない。
「もう帰るぞ! 早よせんと帰りの電車が混むからな!」
 帰りが混む、と聞いたケイコがあっという間に態度を決めた。
「ミユキ、もう帰ろ?」
 こうなったら、引きずられても帰るしかない。母は尊重する。
 ミユキは、孤独だった。

 帰り着いて、テレビをみた父親に知らされた。タイガースは二けた失点で大敗。やっぱり完敗だった。
「ホラ、な。早よ帰ってきて正解やったろ?」
 父親が自慢げに自己正当化。

 そんなん知らへん。
 応援しに行ったから勝てなかったのか、最後まで居なかったから負けたのか、それはわからない。ミユキは悔しい。どうせ変わらないのかもしれないけれど……。自意識過剰なのかもしれなかった。

〈次節につづく〉
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