第十三章 第三節 ケイコとタカユキ

文字数 2,393文字

 変わった人やな。ケイコは思った。

 森本(もりもと)ケイコと中谷(なかたに)タカユキは交際し始めた。お見合いの場でも断る決定的な理由がなかった。むしろ、ケイコの両親はタカユキを気に入っていたから。タカユキの勤務先も悪くない。収入も将来も安定しているように思えた。
 タカユキの側も、気を回してくれた上司に立てる顔というものがある。それにケイコの父親は国鉄勤務、つまり国家公務員である。家柄が良いと思った。

 変わった人だと思ったのは、喫茶店でのことだった。
 水とおしぼりが出てきたところで、タカユキがアイスコーヒーを注文し、ケイコはアイスミルクティーを注文する。眼鏡をかけている。タバコを持つタカユキの手はしなやかで、魅力的だった。そのタバコも少し吸っただけ。注文した飲み物が到着すると、灰皿にさておいてしまって。飲み物に口をつけ。
 デートのはずの場で話し始めたのは――
(クウ)ってなんやと思いますか」
 (クウ)について。
 仏教の話題を熱っぽく語る。デートだから妙に舞い上がっているのならばそれはいいとして、相手の様子とか相応(ふさわ)しい話題とか、まるで考えていないようだった。
 ケイコには、見たことのないような(たぐい)の男だった。いままで、ふらふら遊び歩いている男どもには見慣れていて、そういう男には防備をガッチリ固めて相手にしてこなかった。タカユキさんはかなり変わっている。どう言っていいか……とにかく、よくわからない。
 もともと聞き上手なケイコは、あいづちを打ったり感銘を受けている素振りをしたりもしつつ、タカユキの話していることがほとんど解らなかった。話半分、右耳から左耳に抜けているような感じ。タカユキは、そんなケイコの様子に気づくこともなく一方的に語る。
 水が汗をかき終わって氷もほとんど消えてしまうまで、タカユキの

は続いた。
 頭のええ人なんやな、と思った。うちには解らへん。まるでお坊さんというよりは哲学者。
 そんな、タカユキの人柄を疑うことがあった。

 しかし、こんなこともあった。
 これまたデートの日、大阪市営地下鉄の電車から駅のホームに降りたときのこと。一人の男が、発車しようとする電車に間に合わせるべく、階段を降りてきて脇目もふらずに駆け込んで来た。「駆け込み乗車は危険です」と車内や駅構内でも広報されていたが、それでもなお、大阪でも駆け込み乗車をする人が多かったのである。そして――
 ドンッ!!
 その男がケイコに激しくぶつかった。弾き飛ばされる勢いでホームに倒れたケイコ。男も転んだ。起き上がり、それでもなお電車に乗り込もうとする。
「ぶつかっといて逃げるのはないでしょう!」
 そう言って男の腕をつかんで引き留めたのは、タカユキだった。物凄い剣幕(ケンマク)だったが、暴力でつかみかかるわけではなくて。淡々としぼりとるように。そうこうしている間に、電車は駅を発車して去っていった。目的を失ったうえに激しく叱責(シッセキ)され、とまどう男。
 タカユキはこの男にケイコへの謝罪をさせたうえに、何かあったらいけないからと、男の連絡先まで聴き取る念の入れよう。
 幸いケイコには、すり傷と内出血くらいでしかなく、隠れたケガはなかった。
 そんな事件があって、ケイコはタカユキのことを信頼した。結婚を前提に。()れ込んだのである。この人はキッチリしている、うちのことを守ってくれる、と。
 それにこの話を聞いたケイコの両親や兄たちのあいだでも、タカユキの株はもちろん大幅にあがった。なにより一家のあるじ、父のヨシアキが深く感心していた。そんなだからむしろ周囲が二人の結婚を期待して、結婚に向けて雰囲気がトントンできあがっていったのである。

 だから交際し始めて一年ほど経って。とりたてて劇的なプロポーズがあったわけではない。お互い、いい歳だ。とりわけ「女はクリスマスケーキと同じ。二五(ニジュウゴ)すぎたら売れ残り」といわれていたくらいだ。二人とも二五なんてとうに過ぎている。この機会を逃したら……と思ったからなおさら、自然な成りゆきにまかせた。
 婚約し、結納(ゆいノウ)を済ます。といっても両家(リョウケ)は互いにすでに見知った顔で、いまさらではあった。しかしその結納にもまとまった金額が要るけれども、タカユキの父タカシは散髪(サンパツ)屋。自営業でお金があまりないということだ。他方の結納返しは、ケイコの父ヨシアキはぽんっと出した。一人娘のケイコには、そのために計画的にお金をとってあったのだから。
 ことあるごとに、とにかく中谷()には「お金がない」ということだった。実際に、自営業の一家のやりくりは厳しかったのだろうし、先に姉である長女が嫁いでいくためのお金をつぎ込んでしまったからのようだ。
 こういうわけだから、森本()からは花嫁道具にしても――名古屋ならばまだしも大阪としては――豪華に用意した。例えば高級木材のマホガニーで丹念(タンネン)に造られたタンスや鏡台。それらは夫のために妻が綺麗(キレイ)でいるために重要な道具である。
 それに対して、肝心の嫁を受け入れる側の中谷家からは、結婚式や新婚旅行の費用も工面(クメン)しきれなかった。半分すら出せなかったのである。指環(ゆびわ)くらいはタカユキの貯金だけで買えた、それがせいぜい。
出世返(シュッセがえ)しで返してくれたらエエから」
 またもやヨシアキはこれも、ぽんっと出したのである。出世返しとはいうものの実際のところ、返してもらおうなんて全く、微塵(ミジン)も、思っていない。貸すというのは形だけのこと。ほかならぬ娘のため。あげるつもりなのだ。どうせ中谷家とは親類になる関係である。ヨシアキという人はそういう、いってみれば、義理人情に厚い男なのである。以前にも、友人に大金を借り逃げされ行方(ゆくえ)をくらまされたことがあったらしい。それでも人柄も生き方も変わることがなかったという。これはただのお人よしではなく、戦争経験が彼をそうさせたのかもしれない。

 そうして結婚式と披露宴、新婚旅行の計画を立て、ついにその日を迎えた。
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