第五章 第一節 母親の入院

文字数 3,561文字

 母親が入院することになった。

 ミユキが大阪市内の分譲マンションで暮らしていた、二歳のときのことである。この頃はまだ二足歩行も、完璧とまでには確立されていない。一人では歩行器に乗ることもあったくらいだ。

 父親は会社勤めで日中は家にいない。母親が入院するとなっても、ミユキを家に一人にしておくわけにはいかないのは、いうまでもない。母親が退院するまで、母親の両親の家で暮らすことになった。つまり世間的にいえば、いわゆる「実家に預けられた」ということである。しかし「預けられる」という表現ではまるで、モノのような扱いであるが……。毎朝毎晩、自宅と母の実家を行き来するわけにもいかないから、祖父母のもとで泊まり続ける、つまり寝食も全てすることになったのである。
 自宅から母親の実家に移るといっても、身体ひとつで済むわけではない。衣服や歩行器、それに食事用の椅子など、それなりの大荷物だ。同じ大阪市内の分譲マンションだとはいえ、距離はある。それらは母方の伯父が自家用車で運んだ。
 ミユキには「お母さんはお腹を手術するから病院にお泊りしてるねん」としか知らされていなかった。具体的な病名もなにも説明はない。詳しく説明しにくいし、「幼いミユキちゃんには説明してもまだ解らへんやろう」と周りはみな思っていた。

 ミユキにとって、自宅から離れることはストレスにもなった。しかし他方で、安全なところに移ることでもあった。自宅にいると、父親やその親類の危害に、そしてその危険に怯えてヒステリックになっている母親の情緒にさらされてきたからだ。いくらなんでも、父方の親類が母方の実家に来襲することまでは、そうは考えられない。互いの領域を侵さないという、暗黙の駆け引きがある。
 父親は、夜の帰宅途中にミユキのところに寄って顔を出した。父親としてミユキの様子をみなければならないというだけではなく、むしろそういう

を妻の両親に見せたり、また彼らになるべく顔を合わせて礼を尽くしたりするためである。気分屋で怒りっぽい父親も、さすがに義父母のところでは醜態をさらせない。
 そしてミユキは、母親から離れれば気がかりになる。父親に「お母さんいつ帰ってくるん?」と毎日のように問うた。そして毎日のように「今日はまだ」と答えが返ってくる。訊かれた父親や(そば)にいる祖父母は、ミユキはお母さんがいなくてさびしいんやろう、と思っている。
 しかし、ミユキは母親の健康状態が気がかりでしかたがなかったのである。
 つまり、周囲は「子どもは養護されるもの」と思っているが、当の本人はとうに「母親を守らなくては」と思っている。
 子どもとは、そういうものである。しかもミユキはとりわね、尋常ではなく利発で早熟だった。
 それなのに、幼い頃のことを忘れた

たちは「子どもは自己中心的で一方的に庇護(ヒゴ)されるもの」だと思いこんでいる。差別的な偏見なのである。

 祖父はまだ五十代、「現役」であった。祖父は職場に出勤している。だから日中には、祖母と二人で過ごした。そして夜は祖父母と布団も隣り合わせで眠る。
 祖母に至ってはさらに若く四十代だ。戦後すぐの事情もあり未成年で結婚していた。それで我が子たちが独立したことで昼に独りなのがさびしかったのか、入院している娘のことは心配だが、孫が一緒にいてくれることは嬉しくもある。そんな祖母が料理や裁縫などをしているところにミユキが付いていることも多かった。
 当時はミシンがまだまだ高価で、電子的な部分はほとんどなく、かろうじて電動に対応する程度。なにせマイクロコンピューターも企業向けで家庭用製品にはなかった時代である。手縫いをしなくて済み、キレイに仕上がる。このメカニカルで精密な贅沢品はまだ、豊かさの「バロメーター」でもあり、幸福な「主婦」をあらわす象徴でもあった。ボビンや針、さまざまな部品がある。糸巻きの糸も、太さも色も多彩だ。そんな豪華なミシンや裁縫道具を、ミユキは歳をとってもよく憶えている。
 ミユキは母親や祖母の姿を見てなんとなく、自分も大きくなったらこんなふうになるのだろうと思っていた。家事をしているところをよく観察した。これは今後、もう少し大きくなれば、母親の家事を手伝うようになる。

 生活習慣も変わった。神棚も仏壇もあり、祖父母は毎日、手を合わせる。食事の献立も変わった。そもそも自宅にいると、しばしば激怒する父親に虐待されて食事や入浴がなくなったりしていた。こちらではもちろん、そんな虐待はない。まだ幼いのに、ようやく平穏な日々を過ごせたといえる。初体験だ。

 ミユキは摂食障害だった。父親から虐待を受けて、しかもしばしば食事抜きにされていたからなおさらだ。なにせまず、食べていいのか、不安になる。
 ミユキは神経質で、繊細で敏感である。味やニオイにも過敏だったし、さらに例えば生き物っぽさが残る食べ物はグロテスクに思えて食べられない。ヒトも動物であるからには生き物を、命を食べねば難しいのであるが、どうにも「共食い」のように思えてならないのである。それに対して、原型をとどめないほどに高度に加工された食品なら、喉を通る。かなり大きくなってもミユキは、ステーキも刺身もイヤだったし、だから寿司も玉子くらいしか食べる気が起こらなかったくらいだ。
 焼魚なども姿がよく見えるからダメ。他方で、とんかつや魚肉ソーセージなら食べた。目玉焼きが食べられるようになるのにも少し歳月がかかったが、甘い玉子焼きは食べていた。
 当時は、ハムソーセージなどの加工食品や、たらこのような魚卵(ギョラン)も、着色料を多く付けていた時代である。添加物が多く、見た目は派手で、大味なものが多かった。白米は地味で味気なく食欲が出ない。ミユキには、ふりかけが常用されていた。
 自宅で両親のもとでもそんなだったから、母親はミユキが食べてくれる食事を出すのに苦労していた。しかし父親はすぐ怒って「甘やかすな」と妻に命令し、ミユキには「好き嫌いするな!」と頭ごなしである。無理やり食べさせられて、吐いたりもした。虐待のうえに、食べられないから、ミユキは()せ細って虚弱だった。

 祖母の出す料理は、献立も味も、母親と同じではない。
 ちなみに、高野豆腐はカルチャーショックだった。クサくてスポンジみたい。食べ物だとは思えない異臭がする。当時それは、水で戻す――というよりも、湯で洗う必要があった。それでもなおアンモニア臭が強かったのである。ミユキにはやはり、食べるのが無理だった。吐き気がする。
 母親は幼い頃から家事を手伝っていたが、真面目で几帳面なので「花嫁修行」の一環で最近の料理や洋裁なども研究していた。だから自分や夫の「家」の味を単純に受け継いだわけではない。つくる料理も今どきのものだ。さらに、ミユキが食べてくれる料理や味を研究していて、独自のノウハウがあった。
 それに対して祖母の料理は、いわば古風である。ミユキにとって、祖父母の家は平穏でストレスが減ったとはいえ、献立や味の変化は食べるのが難しくなる要因だった。食事になかなか馴染めないミユキ。
 しかし祖父母は、両親から離れさせられているミユキのことを不憫に思って、あまり厳しく当たらなかった。自宅よりもはるかに穏やかな食卓だった。味は同じではなかったにせよ、祖母もミユキが食べてくれるものをつくるべく苦闘した。「やっと食べてくれた!」と、食べてくれたかどうかで一喜一憂。食べさせる「教育」よりも、まず食べてくれることを第一に考えて気を揉むくらいに、ミユキは衰弱していたからである。

 祖父母の家で暮らして、新たな体験があった。いとこが近所に住んでおり、その母親と一緒にしばしば来訪したからである。そのいとこは、母親の兄の子、つまりミユキの伯父の子。なにせ長男の妻は義父母と関係を深めないといけないし、買物など用事もあるから「お義母(かあ)さん」と、我が子の面倒を頼んだのである。
 いとこはミユキよりも一つ近く年下である。二人ともまだ幼かったから、二人だけでいるということはほとんどなかったが、年下の子が身近にいるという経験は新鮮だった。利発で物静かで年不相応なミユキ。いとこは年相応でずっとありふれた、奔放な子だ。そして、自宅近所の子たちがみな冷ややかで利己的に当たってくるのと異なり、いとこはミユキのことを(した)う。歳が近くて敵意なく親しく関わってこられる人は初めて。いとこはまだ這ったりつかまり立ちをしたりするくらいで、ほとんど歩き回らない。そのいとこの相手をして過ごした。知能のレベルには差があったとはいえ、仲間ができたと思った。
 しかし、いとこはあくまでも「よその子」である。だから「私にも妹か弟が欲しいな」と思うようになった。
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