第六章 第三節 LET IT BE

文字数 3,808文字

 ミユキの母方の祖母は、眼鏡をかけている。父親も眼鏡をかける。母親は、たまにしか眼鏡をかけない。三人とも近視なのだが、母親は乱視もあるらしい。眼鏡のレンズが分厚くて、重い。いまは度が強くても乱視用でもプラスチックレンズが一般的だが、当時はガラスレンズだった。眼鏡が重くて頭が痛くなってしんどいからと言って、どうしても必要なときくらいしか眼鏡をかけない。家計簿をつけるような事務作業のときや、裁縫のときくらいだ。料理も眼鏡をかけずにしている。外出に眼鏡をかけないのは、外見を気にしてのこともあったはずだ。それに、眼鏡は化粧との相性もよくない。
 ミユキは母親の家事にも着替えにも化粧にも、そばに付いている。母親の様子が気がかりだ。母親のやっていることを習得しようと思っていたのもあったし、もしかすると、見棄てられるのではないかという怖れもあったのかもしれない。突然にヒステリックになるのを怖れて、母親のキゲンをとっていた。

 そんなだから、母親が化粧のときに熱心に向かっている鏡台(キョウダイ)のことも気になる。タンスと一緒に「花嫁道具」の一式のうちの一点。これらの「花嫁道具」はみんな木製で、濃赤色の分厚い塗装がほどこされて光り輝いている。
 ちなみにタンスの一か所は打痕(ダコン)で塗装がひび割れている。「これ、なんでこうなってるん?」と訊くと、「この傷は、あなたが小さいときにあそんでてつけたんよ」と教えられた。ミユキには、その憶えはまったくない。
 鏡台は三面鏡だ。母親が使っていないときにはよく開いて、のぞきこんでいた。自分の顔が見える。まじまじと見つめて「私、こんなんちゃうのにな」と違和感を覚える。鏡の角度をいろいろと変えてみる。鏡を横から見ると、出した顔半分が左右対称に反対側にも映って、まるで顔全体みたいかのように見える。そういえばテレビかなんかで、大きな鏡をつかって宙に浮いて見えるようなことをやっていたのを見た、あれと同じだ。家のリビングには小さいながらも、赤いプラスチック製の筐体(キョウタイ)のブラウン管テレビがあった。チャンネル切替が回転ダイヤル式で、音量調整ツマミがある。電源は、音量調節ツマミを押込んで切替える。
 鏡台の鏡をまじまじと見て、いろんなことをやってみる。顔を近づけたり、口を付けてみたりする。ますます、これが自分の顔だということには納得がいかない。

 きょうだいはいないし、友人もいない。日中は、母親と出かけるか、そうでなければ家で二人で過ごす。公園に母親と出かけることもあるものの、結局は母親と一緒か独りで遊ぶ。よその子どもとはコミュニケーションが成りたたない。合う余地がないうえに危険なので、ミユキのほうが避けるし、母親もよその子におびやかされないよう意識していた。外で運動をしないので、父親が室内用のジャングルジムを買って設置してみたくらいだ。
 ミユキは母親のことが気がかりだが、だからこそ本当は、独りでいるときが最も落ち着く。家にいても独りでいろいろ遊んでいる。畳の上やら、リビングのグレーのジュウタンの上やらで、歩き回ったり寝転がったり()い回ったりする。人形や「トミカ」をもてあそんだりする。あと、母方の祖父は国鉄マンなので、機会があるとミユキにプラレールを買い与える。複雑なこととなると親が手伝うこともあったが、それでもミユキは素晴らしく早熟で対象年齢をはるかに超えてあそんでいた。
 それと、独楽(こま)がリビングに置いてある。北海道で買ったであろう、顔の形に削られている木彫りの人形一対(イッツイ)と並べておいてある。人形のほうはたぶん夫婦になぞらえているのだろう。独楽も木彫りだが、色とりどりに着色されている。「親子独楽」とかいろいろと「変わり独楽」もある。どちらも新婚旅行の土産(みやげ)だといい、独楽は津軽土産だ。北海道だけではなく青森県にも行ったらしかった。そんなわけでミユキは、その独楽をもてあそんでいることもある。
 あと本当は、独力でトイレを済ませるようになってからは、家のなかではトイレが落ち着く。独りでいられて他人の目がないので、そこでだけは「本当の自分」になれる。言いたいことをしゃべれるし、身体もいっぱいに動かせる。
 母親と買物に出かけると、商店街に行ったり、当時は新興事業で勢いの出てきたスーパーマーケットにも行ったり、けれども市場(いちば)にも行ったりする。市場だってまだまだ活気があって盛況だった。「リカちゃん人形」用の菓子付き玩具が売られていて、お目当ての物を買ってもらうために菓子店めぐりをした日もあった。ままごと用のキッチンなどの家財道具の玩具で何種類もあったが、欲しい種類の在庫が店頭になかったりしたのである。
 ミユキには、市場の狭くてうるさくてクサいのが苦痛だったりもする。それに、市場の店主にからまれるのがものすごくイヤなのだ。彼らは、ミユキを見下(みくだ)してくる。子どもを同じ人間扱いしない。
 総合スーパーマーケットは、広くて明るくて見通しがよいので気に入っている。母親は買い物でくたびれるのか、「一休み」が多い。ミユキと軽食をとったり、ゲームコーナーに行ってミユキをあそばせたりする。とはいえ幼いうちはルーレットでアタリハズレが出るだけのゲームとかいうくらいのものだ。
 スーパーマーケットが広まってきたのには、日本の景気がよくなってきて「主婦」という社会身分が確立し、地位がそれなりに定着したこと、それにその「主婦」が「パートタイマー」で再就職する需要が高まってきたことがあった。いわゆる「団塊(ダンカイ)世代」が、我が子が少し大きくなって落ち着き始めた頃あいなのだ。それでスーパーマーケットというのは、「主婦の店」である。人手も労働時間も抑えて人件費を減らし、売価を下げる。なので、家計をやりくりして夫の稼ぎを一円でもムダにすまいと、「主婦」の職責を果たしに買物に来る。同時に「レジ打ち」などの店員にも「主婦」を雇っている。来店客も店員も「主婦」。例えば「ダイエー」にしても、もとはドラッグストアだったのだが、「主婦の店」になっていったのである。そんな時代だったから、「ダイエー」やら「ニチイ」やらスーパーマーケットが乱立して競争していて。でも、同業他社と食い合うというよりも、市場にいた客を奪って成りたっていた。市場の店主は、近所に建つスーパーマーケットを敵視していた。

 家では母親が音楽をかけることがある。レコード盤か、カセットテープだ。ザ・ビートルズやABBAのような解放的なものもあれば、ザ・カーペンターズやアンディ・ウィリアムスのような古典的な「保守的な」ものもある。それと、井上陽水(いのうえヨウスイ)のカセットテープ。ザ・ローリング・ストーンズのカセットテープもあったが、テープがよじれて壊れていた。「あなたが小さいときにテープ全部、引き出してもうたから」と母親が云う。それはなんとなく憶えがある。
 母親のこの聴きかたをよくよく考えてみれば、本人の複雑な心情の、葛藤の表れのような気がするのである。日本の儒教的な封建社会、閉鎖性から解放されたいという思いと。古典的な社会文化の安心感と。そして、高卒で大学も短大にも行かずに就職し「全共闘(ゼンキョウトウ)」だのという「学生運動」から距離のある立場が、どっちにもつかずに超然として形ばかりはフォークソングをやっている井上陽水へと。欧米のような解放的で華やかな社会を求めているが、争いごとをみるのがツラい、そんな思い。
 母親の気分次第で、その日にかける音楽が変わる。ミユキはどれも妙に気に入っていて、音楽に、それと英語にも、幼くして親しんでいた。アンディ・ウィリアムスのレコード盤の歌詞カードにある写真に、「おじいちゃんみたいだ」と思う。母方の祖父になんとなく似ている。子を連れてスキーで滑っている写真なんかを見て、祖父と自身に照らし合わせて思ったりもした。おじいちゃんの安心感。

 父親はあいかわらず、わけのわからないことでいきなり激怒する。
 母親は家事と育児が生きがいになっていて、その職責を果たすのに懸命で、その閉じ込められた牢獄のような人生に、時おりヒステリックになり叫ぶ。「私はおさんどんとちがう!」と。
 そんな両親のもとでなされるがままに流されるしかない。怒らせないように気をつけながら、必死に。

 井上陽水のカセットテープのジャケット写真は、サングラスをかけた彼が立っていて、その姿が窓ガラスにも映り込んでいる。入っている歌は「御免」とか「ロンドン急行」とかの疾走感がおもしろい。ロンドンは想いもつかないほど遠くだ。それはそれは憧れだろうと思う。ヨーロッパの列車に乗ってみたい。オリエント急行とかも。いまの暮らしから逃げ出したい思いがなんとなくあった。そして、「野イチゴ」を聴くとホッとする。とにかく「野イチゴ」は、いいようもなくホッとするのだ。
 「二色の独楽」という歌がある。男女を独楽にたとえた歌なのだろう。母親はなぜか、この歌だけはかけたがらない。卑猥(ヒワイ)な歌だから、幼いミユキには「まだ早い」と考えたからなのかもしれない。淫靡(インビ)な曲なのだが、その伴奏もミユキにはおどろおどろしく感じられた。なんだか不気味だ。

 両親の、この夫婦の「独楽」は、もう止まっていたのかもしれなかった。夫婦の役を演じているだけ。愛は終わっていた。いやそもそも本当は、愛なんて始まっていもしなかったのかもしれない――。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み