第五章 第二節 母親の両親

文字数 3,240文字

 母親は、退院まで長引いた。手術前の準備期間もやや長めにとっていたとはいえ、それは全くといっていいくらいに関係がない。術後の経過がよくなかったからである。ゆえにミユキの、母方の祖父母の家での暮らしも長くなった。もう、滞在というよりも「住んでいる」とまでいっていいくらいだ。

 母親の容態が心配なのも、もちろん母親が近くにいないことも、ミユキにとって大変なことだった。毎日毎夕「お母さんいつ帰ってくるん?」「まだや」の質疑応答の繰り返しである。
 しかし、実の父母のもとにいるよりも祖父母の家にいるほうが安全でもあった。なにより、ここにいるとストレスが少ない。理不尽に怒られることがない。「面前DV」もない。祖父母は優しい。二人とも賢いが、あまり神経質にならず、おおらかで朗らかだ。お風呂にも毎日、思うように入れる。いとことも一緒に入ったりした。日々の食事も進んで、食欲もそこそこ出てきたし、間食いわゆる「おやつ」も思うように出た。
 ミユキがずっと暮らしているものだから、祖母はミユキや来訪する孫のために「ミルミル」や「ジョア」の宅配までとるようになった。「マーブルチョコレート」や「森永チョコボール」「アポロ」「森永ミルクキャラメル」「明治サイコロキャラメル」など、お菓子も常備するようになった。しかしなによりミユキがこのんだのは、甘い菓子よりも塩辛い、「雪印さけるチーズ」だった。おそらく本能的に、タンパク質の不足を補おうと身体が欲していたのだろう。
 そうして食べるようになって、ミユキの心身は深刻な衰弱状態からは脱していった。

 祖父はミユキに戦争の話をすることがある。
 彼は前線の戦闘には参加していなかった。なぜなら彼は大工の棟梁の養子で跡を()ぐために建築士になっていたからで、基地を建設する任務を負っていたのだ。それで戦争の話となると、基地をつくったときのことを話す。建設現場は平穏で地元の人々と仲良く過ごしていたというから、物はあったのだろう。しかし、トイレのときは張った縄でお尻を拭いたというから豊かではないし、「伝染病」つまり感染症の危険がとても高かったのだろう。そして最後は、その基地を引き継いだ部隊が全滅したという話で終わる。彼がつくった基地を実際に使った部隊が、直接に顔を合わせた後任の兵卒たちが、みな死んだのだ。戦争が終わり彼が日本に帰ってきたとき、兄弟も友人も知人も、その多くが死んでいたという。「みんな死んでもうた」と話す彼からは、どうしようもない哀しみと、遺されたやるせなさが、にじむ。もっとも彼自身も、感染症で苦しんだようだ。
 ミユキの祖母は、防空壕に潜り大阪大空襲から生き残った。大阪は焼け野原になった。登記簿も焼けたといい、生き残った人のあいだでロープを張ったりして土地の取り合いをしたそうである。まさに縄張り争いだ。戦争中は物がなくて、さつまいもの(つる)まで食べたという。戦後もしばらくは、米兵に "Give me a chocolate" とせがんだというし、寄生虫の流行を防ぐためにDDTの粉を身体に吹き付けられたという話も。
 二人の話を聞いてミユキは、まだ理屈では考えられなかったものの、戦争と死についてただならぬものを感じた。その後も二人は一生を通じて、会うたびに戦争の話を繰り返していた。「戦争を繰り返してはならない、経験を語らねばならない」という使命感があったのもたしかだがきっと、語らずには生きていくのに耐えられなかったのだろう。

 ミユキの祖母は当時まだ未成年だったが、帰還してきた彼と結婚した。戦後の数年内のことだ。そうして二人を引き合わせて婚姻させるくらいには、家柄が双方ともにあったということなのである。女は「養ってもらう」ことに成功し、男は家を継がせる長男を得た。このような養子縁組も婚姻も、嗣ぐ者がいなかったからである。ミユキの祖母は兄弟がおらず、妹しかいない。
 祖父母の親類関係は複雑だ。彼らが時おり話す情報をもってしても、ミユキにはよく解らない。とりわけ、戦争で亡くなった親類のことは話に出ない。出征でも大阪大空襲でも、亡くなった人が多かったはずなのに。きっと意識的に避けていたのだろう。もう亡くなった人のことを話す必要は、ほとんど起こらない。必要がなければ、話したくない。聞きたくない。
 祖父母の家は、大阪国際空港つまり伊丹空港の航空機が近くの上空を通る。(ボーイング)747いわゆるジャンボジェット、四発のエンジンの轟音が響き渡るときがある。飛行機の騒音には慣れているはずなのにそれでも、祖母は「飛行機にはよう乗れんわ」と言う。ただ怖いということではなくて、空襲の記憶があるからなのだろう。大阪の街は(ビー)29の絨毯(ジュウタン)爆撃を受けたのだから。ミユキの祖父は勤務先が日本国有鉄道、現業公務員であった。祖母も夫の仕事のことを思うこともあり「旅行は新幹線」派だ。「電車が一番」と言う。
 ミユキの祖父は大正生まれ、祖母は昭和生まれ。二人のあいだには三人の子がいる。いわゆる「団塊の世代」である。だからミユキは「団塊ジュニア」だ。もう昭和五十年代。昔に比べると、物は豊かで鮮やかで、工業が発達したり自動車が普及したりして公害が問題になってもいた。

 ともかくもミユキの母の父の養父は大工の棟梁だった。そしてミユキの母の父は一級建築士である。ちなみに彼の長男は中堅建設会社いわゆる「ゼネコン」に勤務している。親の職業を息子が嗣ぐという、封建的で律儀な家である。
 そして、家庭内の分業も「男子厨房に入らず」のような、料理もお茶汲みも女がする家である。ミユキの祖母も、ミユキの母親も、そういう家庭で生きてきた女なのだ。そしてこのしきたりは、ミユキの伯母に当たるこの家の嫁も従っている。当然だと思って疑わないし、(あらが)うという選択肢もない。ミユキも婦女子なので、婦人勢に付いて台所に入ったりしても止められることなく家事の様子を見ていられたが、違和感を覚えていた。

 ミユキは虐待を受け続けていたのもあって、賢く内向的でそして、必要最小限なことしか言えない子だ。じっと押し黙っている。頭は生き抜く(すべ)を考えるためにある。言い換えれば、アイデンティティーの成立がとても早かった。「小さな大人」だ。同じ年代の子どもの多くは泣き叫んだり暴れたりするものだが、そうしたことが全くない。祖母たちはミユキのことをよく「おとなしい」といったものだった。両親は「自閉症」を疑っていたほどである。
 祖父母はミユキに無理()いをしなかった。母親から離れなければならなくなっているミユキのことを想ってだろうが、人生経験や年齢による胆力(タンリョク)もあったかもしれない。祖母はミユキをやたらと抱きしめたがる。早熟なミユキは、その意図までも(カン)づいていた。たしかに、親からの愛情が足りない。ただ、「可哀想だ」と思われるのならば心外(シンガイ)だった。

 ある休日に祖父はミユキを連れて自転車で出かけた。向かう先は淀川。祖父は五十代でもまだ身体が丈夫で、自転車を()ぐ勢いは、ぐいぐいと力強かった。自転車で淀川沿いを走る。
 自転車では電車や自動車と異なり、周りと(へだ)てられることがない。ただ単なる散歩のようなものなのだが、ミユキにとっては冒険だ。ミユキがいままで見たこともないところを走っている。激しく風を切って、景色が目まぐるしい。しばらくは怖れを感じていた。それがかなり経って慣れてくれば、我を忘れるようになってくる。ミユキにとっていままで、これほどまでに安心して時を忘れて熱中していられる時間はなかった。
 戦争の経験を抱えながらも、朗らかな祖父。強くたくましい。彼への信頼と原体験は、ミユキに一生涯にわたり彼を敬愛させた。ただ封建的な地位にしがみついて偉ぶるような男ではない。深い知恵と情緒を備えた立派な人だ。とはいえ「昔からそうだった」というわけではないのかもしれない。ミユキは彼の若い頃の人柄を知らない。
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