第十八章 第六節 冤罪(一)
文字数 2,449文字
ミユキは頻尿 だから、幼稚園では休み時間だけではなく授業中でもトイレに行く。行かねばならない。休み時間にあらかじめ行っていても、時間中に尿意がくる。しばらくは辛抱しているが、こらえかねるところまできてしまう前にトイレに行かねばならない。
いうまでもなく、幼稚園内だけではなく、自宅でも、母と外出中でも、同じ。
幼稚園では望む通りには水分を摂 れない。ジフェンヒドラミンを服用すると喉 が渇 きやすくなる。それでも飲ませてもらえないのだから、待遇が悪い。しかし水分を摂るまいが、頻尿だった。
そしてそれは、絵を描く時間、つまりは図画 の時間に起こったことだった。
幼稚園だから、小学校と比べても何もかもが雑然としている。
授業内容も、例えば「おかあさんのえをかきましょう」とか課題は与えられても、園児めいめいが勝手気ままに本能的に、動物に知能が少し生えた程度の自意識のなさで、描いている。もしも犬猫が人語 を話せたらきっと、彼らとはいいセンをいくのだろう。ヒトとはそんなものである。
教室に机や椅子はない。床に直接座って、床に画用紙やクレヨンなどを置いて。要は地 ベタリアンである。園舎内では上履きを履かなければならないことになっているから、それでも不衛生ではない、そういう程度の感覚だった。それは図画工作に限らず、あらゆる授業がそうだった。運動で園庭に出るならば運動着に着替えて土足に履き替えるが、いわゆる体育座りもさせられていた。ちなみに園庭は舗装されておらず、土だ。地ベタリアンである。日本人というのは、それをおかしなこととは露 にも思わないらしい。
そのときも絵を描いている途中でトイレに立つ。
みな地ベタリアンなので、足もとに細心 の注意を払って出なければならない。
ミユキはいつものように教室の隅 のほうにいた。それは、ほかの園児らと交 ざりたくないからだけなのではなく、出口に近いのでトイレに行きやすいからでもある。反対にもしも奥に居たとしよう、誰をもさまたげずに出ることは不可能になってしまう。図画に限らずいつも、出口の近くに居るのである。
みなが座り込んで、画用紙とクレヨンを拡げて絵を描いている。足もとを注視しながらおそるおそる教室を出た。ともすれば踏んづけてしまいかねないからだ。とはいえ途中に居る園児なんて数人しかいなかったのだが。
ミユキは、神経質で心配性だ。それは母にも似たが、いままでの人生経験からいっても無理もない。祖父らに襲われたり、父親に虐待されたりしてきたのだから。だからバカバカしいくらいに気をつけて一挙手一投足を行動している。何もしなくとも虐待を受けること、ミユキは知っている。思い知らされている。だから、隙 をつくらない。目だたない。
独りでトイレに行き、トイレでは草履、いわぬる突っ掛けに履き替えるのだが、それで用を足して帰ってくる。
すると教室は騒ぎになっていた。
絵が踏まれたという。
なぜか、ミユキが踏んだことになっている。まったく身に覚えがない。決してありえないことだった。居ないところで勝手に起こったできごと。わけがわからない。
根拠は、被害者の申告ひとつである。彼は泣いている。もう彼は、わけのわからないくらいの崩れようである。「かわいそう」という感情を誘うにふさわしかった。
だが、彼が見た犯人というのが本当にミユキなのかというと、疑わしい。みな制服を着ていて見た目はあまり異ならない。しかもなにせ、まだ園児である。こういう年ごろは、人を区別して特定する認識力は不完全だろうのに、思い込みばかりは立派だ。
しかし教諭がミユキを責めたてる。絵を見せつけられる。靴底の跡が茶色くクッキリと付いていた。
そんなもの、証拠にはならないのに。園児らの上履きは大手企業の既製品 である。跡が付いていたところで、誰の上履きなのか一切わからない。
「謝りなさい」「『ごめんなさい』しなさい」
わけもわからずミユキは謝らされた。
教諭からすれば、謝らせることは教育の一環だということだったのだろう。わざとじゃなくても謝らなければならない、と。ミユキがただ単に過失で、不注意で、ほかの子の絵を踏んづけてしまったのだ、と。決めつけた。根拠は薄弱 なのに。
それがありえないことなのは、ミユキ自身にはわかっている。わざとではなくとも間違いが起こりうることを、ミユキは知っている。いままでにも責められてきたからだ。何も悪いことをしていなくとも虐待をされてきたのだから。怒る理由なんて、その時々でどうだって造られてきた。
だからミユキは、決して間違いの起こらないように神経質で慎重で。母に似て。あの頃ケイコが姑に執拗 にいびられて、失敗をでっちあげられ、すっかり神経質で自己不信の人になってしまった、それと同じように……。
そのときもミユキは、足もとを見つめて、それこそ目を皿のようにして、一歩一歩を確かめて動いていたのだ。ミユキは、同世代の子どもとも、教諭の想像力とも、ずっとずっと先を生きている。大人だ。
その実 、犯人を決めつけて謝らせないと、事態は収拾 がつかない。まともな証拠がなくとも……。そのときの教諭の立場からしてみれば。
それどころか世の警察でさえも、そんなものだろう。犯人を捕まえて自白させれば、世間は落ち着きをとりもどし、警察の体面は保たれる。さすがのミユキもまだそこまで深くは考えたことがなかったが。
何も悪いことをしていないのに――。
屈辱。
そのときミユキには思いもしなかったことだが、そもそもその被害者の「狂言 」だという可能性もあった。自分で踏んづけてしまったのを、悔しくて、別の子がしたことにして。ちょうどいいタイミングで教室を出ていたミユキに手っ取り早くなすりつけた可能性が。
ミユキは、よその園児とは全く異なり暴れまわらない。上履きがほとんど汚れない。あとでミユキ自身が靴底を確認してみると、やはり、白かった。
冤罪 。
ミユキは黙っていた。
――そうするしか、ない。
いうまでもなく、幼稚園内だけではなく、自宅でも、母と外出中でも、同じ。
幼稚園では望む通りには水分を
そしてそれは、絵を描く時間、つまりは
幼稚園だから、小学校と比べても何もかもが雑然としている。
授業内容も、例えば「おかあさんのえをかきましょう」とか課題は与えられても、園児めいめいが勝手気ままに本能的に、動物に知能が少し生えた程度の自意識のなさで、描いている。もしも犬猫が
教室に机や椅子はない。床に直接座って、床に画用紙やクレヨンなどを置いて。要は
そのときも絵を描いている途中でトイレに立つ。
みな地ベタリアンなので、足もとに
ミユキはいつものように教室の
みなが座り込んで、画用紙とクレヨンを拡げて絵を描いている。足もとを注視しながらおそるおそる教室を出た。ともすれば踏んづけてしまいかねないからだ。とはいえ途中に居る園児なんて数人しかいなかったのだが。
ミユキは、神経質で心配性だ。それは母にも似たが、いままでの人生経験からいっても無理もない。祖父らに襲われたり、父親に虐待されたりしてきたのだから。だからバカバカしいくらいに気をつけて一挙手一投足を行動している。何もしなくとも虐待を受けること、ミユキは知っている。思い知らされている。だから、
独りでトイレに行き、トイレでは草履、いわぬる突っ掛けに履き替えるのだが、それで用を足して帰ってくる。
すると教室は騒ぎになっていた。
絵が踏まれたという。
なぜか、ミユキが踏んだことになっている。まったく身に覚えがない。決してありえないことだった。居ないところで勝手に起こったできごと。わけがわからない。
根拠は、被害者の申告ひとつである。彼は泣いている。もう彼は、わけのわからないくらいの崩れようである。「かわいそう」という感情を誘うにふさわしかった。
だが、彼が見た犯人というのが本当にミユキなのかというと、疑わしい。みな制服を着ていて見た目はあまり異ならない。しかもなにせ、まだ園児である。こういう年ごろは、人を区別して特定する認識力は不完全だろうのに、思い込みばかりは立派だ。
しかし教諭がミユキを責めたてる。絵を見せつけられる。靴底の跡が茶色くクッキリと付いていた。
そんなもの、証拠にはならないのに。園児らの上履きは大手企業の
「謝りなさい」「『ごめんなさい』しなさい」
わけもわからずミユキは謝らされた。
教諭からすれば、謝らせることは教育の一環だということだったのだろう。わざとじゃなくても謝らなければならない、と。ミユキがただ単に過失で、不注意で、ほかの子の絵を踏んづけてしまったのだ、と。決めつけた。根拠は
それがありえないことなのは、ミユキ自身にはわかっている。わざとではなくとも間違いが起こりうることを、ミユキは知っている。いままでにも責められてきたからだ。何も悪いことをしていなくとも虐待をされてきたのだから。怒る理由なんて、その時々でどうだって造られてきた。
だからミユキは、決して間違いの起こらないように神経質で慎重で。母に似て。あの頃ケイコが姑に
そのときもミユキは、足もとを見つめて、それこそ目を皿のようにして、一歩一歩を確かめて動いていたのだ。ミユキは、同世代の子どもとも、教諭の想像力とも、ずっとずっと先を生きている。大人だ。
その
それどころか世の警察でさえも、そんなものだろう。犯人を捕まえて自白させれば、世間は落ち着きをとりもどし、警察の体面は保たれる。さすがのミユキもまだそこまで深くは考えたことがなかったが。
何も悪いことをしていないのに――。
屈辱。
そのときミユキには思いもしなかったことだが、そもそもその被害者の「
ミユキは、よその園児とは全く異なり暴れまわらない。上履きがほとんど汚れない。あとでミユキ自身が靴底を確認してみると、やはり、白かった。
ミユキは黙っていた。
――そうするしか、ない。
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