第十二章 第二節 家業

文字数 2,514文字

「夜逃げするぞ」とタカシは言った。

 片足が不自由で世間に疎まれ差別されているタカシ。それでも家業があったから、収入や資産があったから、少なくとも身内では居どころがあった。
 しかし、不動産業の家業を再興するどころか資産も失い、食い扶持すらもない。何をやろうにも元手がなかった。幼子二人を抱えている中谷家。妻子三人をタカシひとりで養わねばならない。
 もう、身内からさえも疎まれることは目に見えていた。いままでだって、露骨には態度に出さなかっただけで、ハラのうちでは何を思っているかわからなかったのに。

 そしていま、目の前にまとまったお金がある。単価はわずかでも、一族全員分の農地の買上代金ともなればそれなりの大金だ。これだけあれば一家の生活を建て直す元手になるだろう。
 タカシにとって、世の中しょせんはカネだった。地位も名誉も、満足な身体もないのだから。

 持ち逃げである。横領。
 犯罪なのは解っている。

 「夜逃げするぞ」妻子三人の前で宣言した。「そうしないと、みんな生きていけん」
 そう宣告されれば妻カズコも、反対という選択肢はなかった。
 夜逃げ。幼いユキエとタカユキには、なんのことかよく解らなかった。「遠いところにお引越しする」と教えられる。日本ではもう、尋常小学校でも国民学校でもなく小学校という名称の制度になっていたが、姉のユキエでさえもまだ、学齢に達していない。今年五歳になるところ。未就学である。子どもは手がかかるが、この歳ならばまだ

がなく身軽だ。

 松山には、愛媛県には、居られない。四国からも出る。一度は死んだ人生、松山に未練はない。
 これからは一家四人だけで生きていく。衣服や少ない家財、持てるものだけ持って、背負って、もぬけのカラにしてウチを出た。
 とりたてて行くアテがあったわけでもない。ただ、行き先は稼ぎの得られるところがいい。それに、追っ手に見つからないような縁もゆかりもない、ごった返す人々にうまく(まぎ)れられる大都会――。

「東洋一の工業都市」大阪。大阪は、産業が発達して活気がある。人の出入りが激しく、地元出身でなくとも怪しまれない。ことばも、松山とわりと似ている。

 松山から大阪へ。四人、船に乗った。四国から出るには船に乗らなければならない。それでも大阪ならば船に一回だけで行け、東京や名古屋に比べればずっと近い。
 子どもら二人は、船は初めてである。数歳のタカユキには「夜逃げ」がなんだか解らなかったが、この船旅は、逃避行は、大きくなってもとにかく憶えている。この光景は、視覚は、体験は、忘れられない。

 船中でタカシは云った。
「これからウチは、『なか

』やのうて『なか

』や」
 お金の持ち逃げが理由で。中谷家は「なか

」から「なか

」へ、読み方が変わった。親類が、そしてたぶん警察が、タカシを捜すだろう。だから、なるべく見つからないようにする。可能な限り、手段を選ばない。
 もともと愛媛では、「谷」の字は「たに」と読んだりも「や」と読んだりもする。ただ、時代が下るごとに「たに」と読まれることが多くなり、中谷一族でもしばしば「なか

」と間違えて呼ばれることがあったのだ。だから、斬新な発想でもなかったし、それに、「なか

」に「改名」するのにはいい機会だった。
 タカシの強権的な主導のもとに、家族三人は付き従った。運命共同体である。共犯だ。犯罪一家。決して他人(ひと)には言えない秘密――。

 大阪は、聞きしにまさる大都会だった。
 それはもう、大阪港に着いたところから。大きな工場がひしめいていて、人でごった返している。全国各地から出稼ぎに来た労働者に、さらには朝鮮半島や中国大陸から移り住んできた人も多い。肉体労働には無理があるタカシだったが、ここでならば商売の手立てはありそうだ。
 とりあえずは一家四人の寝床を確保する。労働者が多いだけに、宿は多い。さすがの大都会、身寄りがなくとも怪しまれない。しかも戦争があったからなおさら、身寄りがない人は珍しくない。当面は泊まることにする。

 さて、一息ついたところだが、いつまでも宿に泊まり続けるのでは、せっかくの資金を食い潰してしまう。早く住まいと稼ぎが必要だ。
 問題は、どうやって稼ぐかである。大阪には知り合いもいない。かりに商店を始めようにも商品をどう入れるのか。いきなり店を開いたところで、失敗するおそれが高いのである。それならば確実に稼げるよう、手に職をつけようと考えた。
 すると今度は、何をどうやって修業をするのか。片足を引きずりながらでも通用する職。そしてそれを誰かに教えてもらわねばならない。

 大阪で暮らす心機一転、松山での姿を改めて身だしなみを整えることにして、理容店に入って思いついた。
 床屋をやればいい。床屋には常に需要がある。しかも大阪は人がどんどんと増えてくる、しかも就職しに来ている人が多い。しかしならば、床屋の弟子になって修業をせねばならぬ。
 見習いを募集している店を探す。そうすると幸いにも、ちょうどよい募集の口にありつけた。戦争で親兄弟を亡くし、失業して大阪に出てきたというと、歓迎してくれた。しかも、一家四人で住み込んでかまわないという。
 こうしてタカシは、理容師になった。

 ただ、そのとき新興宗教への入会を勧誘された。店主一家も入っているし、お客にも会員が多いという。
 松山を捨て国を捨て、やってきた大阪。菩提寺なんぞない。身寄りも知り合いもいない。宗教に入るのはちょうどよい。いいきっかけや。これで師匠も気をよくしてくれる。うまくやっていけるやろう。友人もできる。お客さんもつかめて仲良くなれる。献金がかかるが、商売のための投資と思えば、割に合った。
 そこの会員には、タカシのように身寄りのない人も多かった。それに、世の中に不満のある、どこか(うら)みを(つの)らせているような人も多い。世の中には様々な事情がある。生きていれば色々ある。表だっては何もない顔をして暮らしながら、寄り集まっている。そんな仲間のうちではタカシも「びっこ」と呼ばれることもなかった。
 こうしてタカシとカズコは、宗教におのずと入れ込んでいくようになった。
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