第五章 第五節 母親の精神

文字数 3,731文字

 ミユキが産まれて。母親が産後から回復し、さらにしばらく経って月経も再び始まって。両親は性行為を再開し、そして第二子(ニシ)を妊娠した。その子も産むつもりでいた。しかし問題があった。母親の心身がもう耐えられない可能性があったのである。
 そもそも母親が弱っていることは、はじめから本人も夫もよく判っていながらだった。二人は第二子もなすつもりで、あえて避妊していなかったのである。もっとも、避妊具つまりコンドームは当時の日本では、いや今でもなお、イヤがられがちなのだが。「子どもが欲しい」と「子どもができてもいい」は同じではない。
 だから、担当の産科医に「難しい」と云われてもまだ、産むつもりでいた。医師に、人工妊娠中絶――「お腹の子を()ろす」という選択肢も提案されてもなお。
 人工妊娠中絶の手術が可能な期間は決まっている。もしも中絶するならば、そのあいだに決断しなければならない。母親は「どうしても産みたい」と言う。自分の子なのでそれも自然なことなのだろう。お腹の子を(あや)めたくない、それももっともなことだ。他方の父親も第二子が欲しかった。「ギリギリまで待ちましょう」と担当医と相談して決めた。
 週齢を重ねていく。母親の身体がもつのか、ますます心配になってきた。タイムリミットが迫る。「出産以前に、妊娠をこのまま続けるのも厳しいのではないか」「母子ともに命の保証はしかねる」担当医が云った。
 医者は専門家。そして日本は儒教社会である、「医術は(ジン)術」という。医者は権威が高い。偉いセンセイが判断することに間違いはない、医者の云うことにしたがうのが当然の世の中だった。もちろんそのぶん医者の責任は重く、独りで決めて抱え込む社会システムなのである。
 それでも自分の命ならば捨ててもいいと思う母親に、「お前が死んだら遺された子はどないなるんや」と夫が云った。私が死んだら、父子家庭になる。幼いミユキは、母親がいなくなって不幸になる。母親は覚悟を決めた。この子を堕ろす、と。
 ちなみに、人工妊娠中絶というのは、堕胎である。母親を傷つけ、胎児を殺すことになる。刑法上は「堕胎罪」という罪名がある。しかし例外があって、「母体保護法」の制度にのっとっておこなえば犯罪にはならない。これは以前は「優生保護法」という、優生思想にもとづいた法律だった。つまり、都合のよくない子が産まれないようにするための制度だった。その制度が、目的を母体の保護に改められ「母体保護法」に切替えられたのである。ミユキの母親が受けた中絶手術もまさに、この母体保護法の趣旨目的にかなったものだった。中絶をやらなければ、母親も命に関わるし、そうなれば先にいる子どもら親類も巻き込まれる。胎児の生命や、ましてや宗教教義は、「(チュウ)に浮いて」存在しているものではない。実際の世界は、理念だけで成りたっているものではない。どうしても決断しなければならない、難しい問題が起こる。人工妊娠中絶は、現実主義的な制度なのである。
 そして手術は行われ、

した。しかし、母親の深く傷ついた心身が、帰宅してミユキと暮らせるほどに回復するのには、期間がかかった。手術をギリギリまで遅らせたからなおさらなのかもしれない。衰弱し、混乱している。とりわけ精神的に。中絶手術にかかった負担自体とは別に、退院するには本人の容態に支障がある。「念のため」と時期を探っているうちに、入院期間が長期になった。

 「水子(みずこ)供養(クヨウ)」、その言葉の意味がミユキにはよく解らない。「水子」の意味も知らなかったが、「供養」という言葉もおかしいと思っている。祖父母も仏壇に「お(そな)え」をよくするが、亡くなった人が食べに来るわけではないのに、なぜ食べ物を差出して置いておくのかが解らなかった。なんで、食べない相手に出すのか。意味がないという気がした。結局最後には自分たちで食べてしまうから食べ物を粗末にしてはいないが、差出していた相手の役には立っていない。

 あえて説明しておくと、「供養」というのは本来は、修行者に食べ物を差出すことをいう。古代インドで、ブッダいわゆる「お釈迦さま」がこの世に生きていた時代には、彼も供養を受けていた。ちなみに修行者からみれば、食べ物を求めることを「乞食(コツジキ)」という。それになぞらえて、故人のために差出す行為を「供養」というようになったのだろう。故人が「成仏した」と考えるのならば、その故人に差出すという意味なのかもしれない。
 ところで、「供養」は善行なので因果応報、()(むく)いがあるはずだ。その報いを誰かに振り向けることを「回向(エコウ)」という。だから、故人を庇護する仏陀や菩薩などが別にいると考えるのならば、彼に「供養」することで、故人へと回向して救ってもらおう、そういう考えかたも出てくる。それで、「水子」というのは流産や死産などで産まれずに死んだ子のことであるが、その「救われなかった子」に回向させるのが「水子供養」という儀式である。

 しかし母親も祖母も、こうした理論的なことをミユキには教えなかった。「理解するにはまだ幼かろう」と思ったのかもしれないし、あるいはそもそも説明する能力がなかったのかもしれない。
 とはいえそもそも、こうした「水子供養」の理屈は、本当の問題ではない。問題は、子を失わせた母親の心身に突き刺さる深い傷と罪悪感。癒えるのはたやすくない。そのための休養であり

なのだ。ただ、それが効くにはたぶん、信仰心が()る。
 ミユキも、連れられてこの水子供養に一度か二度くらい行ったことがあった。薄暗くて、不可思議な雰囲気だった。もの()い。
 ミユキが「水子ってなに?」と尋ねても、母親は教えてくれず、ヒステリックになる。祖母も初めのうちは教えてくれなかった。しかしその後、母親が不在のときにようやく、祖母はミユキに教えた。
 それでミユキもやっと、いままで周りが隠しつづけていた、なにが起こっていたのか、それを知ったのである。私の妹か弟がお母さんのお腹にいたけど、死んだのだ、と。顔を合わせることもないまま。私にもきょうだいがいたけど、会えなかった。
 ミユキは、きょうだいをねだれなくなった。

 母親は情が深くなった。堕ろした子のぶんも、この子に。悪い意味でも執着心が深い。ただでさえ母は子に情をかけるのに、こだわりはさらに強くなった。
 ミユキは、死んだきょうだいのぶんも背負わされることになった。ふたりぶんの期待。母親のために愛情と期待を受けようと思った。亡くなった子も、ひいばあちゃんも、私に付いて見てくれていると思った。その子のためにも生きていこうと決めた。
 ミユキには、エゴがない。

人生がない。


 いつのことだったろう。一年か二年くらい経っていたかもしれない。ミユキは母親に連れられて、保健所に予防接種を受けに行った。ミユキはいままでにも予防接種を受けてきた。注射を受けてもいつも、泣かない。騒がない。むしろ、泣き騒げない。おのずと辛抱してしまう。だからそのたびに周りからは「偉いね」とほめられる。
 その帰り道、アーケードのないちょっとした商店街を二人で歩く。平日の昼間で混みあってはいないが、買物客は珍しくない。人がちらほらと通り過ぎる。当時は、平日の街でも若い人と女性が多かった。ちなみに、いまの大阪ならば高齢者だらけなのだろう、彼らもこのころは若かったわけだが。
 食事のため、うどん店に入った。大阪だからもちろん、うどんは一般的な食事である。チェーン店というよりも暖簾(のれん)わけでもしたのかもしれない、地域に何店かあるそのうどん店。ミユキは、そこのうどんが、というよりも、おにぎりが、いや、おにぎりというよりも、付いているゴマ塩とタクアンがスキだ。だから母親には、ミユキに対する、注射のあとの御褒美(ゴホウビ)的な意図があったのは明らかである。ちなみに、同じ食事でうどんと米の両方を食べるのもごく一般的なことである。ミユキは塩のかかった赤飯か白飯がいいのだが、ミユキの母親は具材の入った「かやくごはん」のほうがいいと言う。当然、注文をして食事をとった。
 ただ、それをよそに店内では、いささか異様な光景もあった。店内の片隅で一人の客が、人形を相手に食事をさせていたのである。数歳くらいの幼児の姿をした人形だ。人形だからもちろん食べないのだが、それでもさかんに食べさせるふりをしていて、まるで

のようだ。たぶん多くの子どもならば、「おかしな人がいる」と好奇心本位で見ただろう。しかしミユキは、その様子になんとなくただならぬものを感じとって、なにも言えずに黙っていた。ジロジロ見ないようにする。誰も、その人のするがままにさせておいて、余計なことはなにも言わなかった。
 店外に出たあとで、母親はミユキに話した。
「あの女の人、きっと、子どもが死んでもうたんやわ」嘆き漏らすかのように云う。「亡くなった子どものことが忘れられへんのやわ」

 そういう人を見ると、頭がおかしいとかビョーキだとかいう人もいるのだろう。しかしこれも普通のことだ。傷は重くて深い。なかなか癒えない。(あと)は一生涯にわたり残るのだろう。人というのはもともと、そういうものなのだから――。
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