第十七章 第三節 サンパツや
文字数 3,048文字
大きくなったらお母さんみたいになる。ミユキはそう思う。
お父さんは恐いしきたない。
しょっちゅう怒るし、新聞を丸めて
それに、突然テーブルを物凄 い勢いで殴る。物凄い音がする。お母さんに怒る。お母さんは、ごめんなさいごめんなさいって謝る。お母さんは、なんもしてへんのに。怒鳴ったらお母さんが謝るから済んでるけど、時々はお母さんを殴る。殴ったら気が済むらしい。
毎晩と、休みの日は、そんな感じ。休みの日は、パチンコに行ってるか、部屋に籠 もってるか、ゴロゴロしてる。それで、肩もめーとか肩たたけーとかなる。
そんなんでもお母さんは、お父さんは偉いんやで、お仕事たくさんしてるんやで、って云う。でも、お父さんが会社にいるところを見たことはないから、ようわからへん。会社から帰ってくると、今日はなんかあったか? って訊 くとこから始まるんやけど、すぐ反対に、今日は会社でこんなことがあってな! ってえんえん話す。それをお母さんはずっと聴いてる。
お母さんは偉い。
父親には危機意識をもち母親には手をわずらわせまいとする。平日の昼間には独りで家のなかで遊んでいる。そんなミユキを見て両親は「この子、自閉症とちゃうか?」と疑ってすらもいた。ミユキの聞こえているようなところで相談している。しかし、必要なときには話す。訊かれたことにはちゃんと答える。「自閉症やないやろう」ということになる。しかし、うまい説明のしかたがなかった。そのくらい、かわっている。
ミユキは初めて、父タカユキ方 の祖父母の家に行くことになった。この祖父母にはまだ顔をまともに合わせたこともない。実際には顔を合わせたことはあっても、まともな顔の合わせかたではなかったし、タカユキは当然「憶 えとらへんやろう」と思っていた。
ケイコの心配をよそに、ミユキはタカユキに連れられて此花 の実家に行った。もちろんタカユキの休みの日曜日のことである。そして今回は電撃訪問ではなく事前に話をしてあった。
国鉄で環状線の最寄駅まで行くのは同じだが、そこから実家まではミユキ自身にはまだまだ歩いて行けはしなかったので、市バスである。そうでもしなければ、タカユキがミユキを背負って歩かなければならなくなるからだ。
市街地なのに陸の孤島のようなそこは、大きな工場が残りかつての栄華を感じさせるものの、閑静で貧乏くさい住宅密集地。古臭く手づくり感のあふれる木造二階建ての理容ナカタニには御多分 にもれずサインポールも付いていた。
「おじいちゃんは散髪屋 や」
タカユキがミユキに改めて説明する。以前からも父親の家は散髪屋だと聞いていた。その散髪屋の店に訪れている。店には貼り紙がしてあり昼休みの延長を告げている。
入りにくい雰囲気の店である。もとより当時は自動ドアなぞというものも少なかったし、あったとしても、マットがスイッチになっていて人が乗ると開く方式だ。赤外線センサー式というものはなかった。しかしそもそも理容ナカタニは昔のままで扉は手動である。そこかしこに老朽化 が始まっており、地元の知り合いでなければ寄り付かないであろう雰囲気を全力であふれ出させていた。
「おじいちゃんとおばあちゃんに『こんにちは』云うんやぞ」
タカユキはそうしてミユキに静かに厳しく圧をかけてから、波々の透明の窓から中を窺 ってから、お客さんと同じように店の扉を開け、なんの気兼ねもためらいもなしに入った。
「ただいま。ミユキを連れてきたで」
「おぅ、来たか」
「こんにちは」秒と経 たずに急いで発した。
タカシは例のごとくふんぞり返って、待ち構えていた。祖父は父よりも背が低くしかし横幅には大きくてイカツい。声が濁っているからなおさらである。寺内貫太郎 か、磯野 波平をさらに恐くした感じ。いかにも頑固親父 で気むずかしそうな男だった。
「おかえり、ミユキちゃん来たか」店舗の向かって左奥からカズコが顔を出した。「いま飲みもんとお菓子出すから」
「こんにちは」
二人とも、割烹着 のような白い服をまとっている。
家は初めから理容店として建てられたものである。しょっちゅう下を向いているミユキが真っ先に見ているのは床で、そこは防水加工のされたコンクリートのたぐい。髪の散らばった床を掃 きやすく、さらには水で流すために、そうしたのだろう。ミユキが今まで見てきた自宅などの家とは全く異なる空間だ。店内の設備も古びている。客が座る椅子も、鏡や洗髪台 も、時代おくれ。刃物 を扱って細かい作業をするというのに、あまり明るくなかった。貧乏くさい。きたならしい。ミユキの自宅は木造アパートでも、母が上流階級志向で室内は少し華やかで西洋風の綺麗な物を選んでいる。しかし父のほうはこの下級庶民の生まれ。それが真実なのだ。
タカユキがタカシとカズコといろいろと話をしている。ミユキには、よく解らないというよりも端的に興味がなかった。結局はカヤの外で関わりようのない世界なのだから。
祖父母にまじまじと顔を見られ、ミユキは彼らに目を合わせたくないが、あらがえるわけでもないので感情を殺して辛抱した。冷静に無感情。無感動。
「俺の孫か」なんだか、えもいえない感慨だった。「アンタのおじいちゃんやぞ」頭をなでる。
そして切り出した。
「ミユキの散髪させてくれるか」
いま思いついたわけではなく、おそらく計画していたのだろう。
タカユキが了承する。ミユキには可否の意思表示をする権限すらない。
もしもここにケイコがいたならばきっと、絶句、あるいは、絶叫、失神すらしていたかもしれない。
しかしこうして、よその散髪屋では見たこともないようなボロくさい環境でミユキは、椅子に上げ底されて座った状態で、ハサミで髪を切られた。
押し黙って硬直したまま無表情で、この強面 の祖父に散髪される。
喋りも騒ぎもしないミユキのことが、この祖父らには面白くなかったようだった。
休み時間は限られている。
「そろそろ帰るわ」
タカユキが言い出して、ミユキは内心ではホッとした。
「さあ、帰るから、ジュース飲んでお菓子食べときなさい」
ミユキはさっきまで全く手を付けていなかったから。バヤリースオレンジ。出てきたお菓子も昔ながらの、岩本製菓のタマゴボーロだった。カズコはきっと、子どもはこういうお菓子がいいに違いない、と思っているようだ。「あたり前田のクラッカー」の時代の人間なのだから。もしかすると、この辺の近所の子ぉも、こんなものを食べるのが普通だったのかもしれない。コレで孫がワーキャー喜ぶのを期待していたのだろう。ハズレ。
ともかくこうして、タカユキらとタカシらは「仲直り」をした。自宅の住所も教えた。もっとも、ヨシアキら森本家は、タカシらと絶交したままである、永久に。
ミユキはグッタリくたびれて、帰りは眠っていた。あまりにも殺伐 としていたから。
ケイコは帰ってきたタカユキから聞いて、真っ青になった。この子がすぐ横で
さて、これを機にタカユキは、自宅を買おう、と決めた。ようやく落ち着いて住める。
それと、第二子。ケイコも、ミユキのときは
お父さんは恐いしきたない。
しょっちゅう怒るし、新聞を丸めて
はたく
。血は出ないけど痛い。スパーンッ、いい音が鳴ると喜んで気が済む。いい音がするまで繰り返しはたく
。だいたい二発か三発くらいはたくといい音がして納得する。あと、お尻もよく叩く。それに、突然テーブルを
毎晩と、休みの日は、そんな感じ。休みの日は、パチンコに行ってるか、部屋に
そんなんでもお母さんは、お父さんは偉いんやで、お仕事たくさんしてるんやで、って云う。でも、お父さんが会社にいるところを見たことはないから、ようわからへん。会社から帰ってくると、今日はなんかあったか? って
お母さんは偉い。
父親には危機意識をもち母親には手をわずらわせまいとする。平日の昼間には独りで家のなかで遊んでいる。そんなミユキを見て両親は「この子、自閉症とちゃうか?」と疑ってすらもいた。ミユキの聞こえているようなところで相談している。しかし、必要なときには話す。訊かれたことにはちゃんと答える。「自閉症やないやろう」ということになる。しかし、うまい説明のしかたがなかった。そのくらい、かわっている。
ミユキは初めて、父タカユキ
ケイコの心配をよそに、ミユキはタカユキに連れられて
国鉄で環状線の最寄駅まで行くのは同じだが、そこから実家まではミユキ自身にはまだまだ歩いて行けはしなかったので、市バスである。そうでもしなければ、タカユキがミユキを背負って歩かなければならなくなるからだ。
市街地なのに陸の孤島のようなそこは、大きな工場が残りかつての栄華を感じさせるものの、閑静で貧乏くさい住宅密集地。古臭く手づくり感のあふれる木造二階建ての理容ナカタニには
「おじいちゃんは
タカユキがミユキに改めて説明する。以前からも父親の家は散髪屋だと聞いていた。その散髪屋の店に訪れている。店には貼り紙がしてあり昼休みの延長を告げている。
入りにくい雰囲気の店である。もとより当時は自動ドアなぞというものも少なかったし、あったとしても、マットがスイッチになっていて人が乗ると開く方式だ。赤外線センサー式というものはなかった。しかしそもそも理容ナカタニは昔のままで扉は手動である。そこかしこに
「おじいちゃんとおばあちゃんに『こんにちは』云うんやぞ」
タカユキはそうしてミユキに静かに厳しく圧をかけてから、波々の透明の窓から中を
「ただいま。ミユキを連れてきたで」
「おぅ、来たか」
「こんにちは」秒と
タカシは例のごとくふんぞり返って、待ち構えていた。祖父は父よりも背が低くしかし横幅には大きくてイカツい。声が濁っているからなおさらである。
「おかえり、ミユキちゃん来たか」店舗の向かって左奥からカズコが顔を出した。「いま飲みもんとお菓子出すから」
「こんにちは」
二人とも、
家は初めから理容店として建てられたものである。しょっちゅう下を向いているミユキが真っ先に見ているのは床で、そこは防水加工のされたコンクリートのたぐい。髪の散らばった床を
タカユキがタカシとカズコといろいろと話をしている。ミユキには、よく解らないというよりも端的に興味がなかった。結局はカヤの外で関わりようのない世界なのだから。
祖父母にまじまじと顔を見られ、ミユキは彼らに目を合わせたくないが、あらがえるわけでもないので感情を殺して辛抱した。冷静に無感情。無感動。
「俺の孫か」なんだか、えもいえない感慨だった。「アンタのおじいちゃんやぞ」頭をなでる。
そして切り出した。
「ミユキの散髪させてくれるか」
いま思いついたわけではなく、おそらく計画していたのだろう。
タカユキが了承する。ミユキには可否の意思表示をする権限すらない。
もしもここにケイコがいたならばきっと、絶句、あるいは、絶叫、失神すらしていたかもしれない。
しかしこうして、よその散髪屋では見たこともないようなボロくさい環境でミユキは、椅子に上げ底されて座った状態で、ハサミで髪を切られた。
押し黙って硬直したまま無表情で、この
喋りも騒ぎもしないミユキのことが、この祖父らには面白くなかったようだった。
休み時間は限られている。
「そろそろ帰るわ」
タカユキが言い出して、ミユキは内心ではホッとした。
「さあ、帰るから、ジュース飲んでお菓子食べときなさい」
ミユキはさっきまで全く手を付けていなかったから。バヤリースオレンジ。出てきたお菓子も昔ながらの、岩本製菓のタマゴボーロだった。カズコはきっと、子どもはこういうお菓子がいいに違いない、と思っているようだ。「あたり前田のクラッカー」の時代の人間なのだから。もしかすると、この辺の近所の子ぉも、こんなものを食べるのが普通だったのかもしれない。コレで孫がワーキャー喜ぶのを期待していたのだろう。ハズレ。
ともかくこうして、タカユキらとタカシらは「仲直り」をした。自宅の住所も教えた。もっとも、ヨシアキら森本家は、タカシらと絶交したままである、永久に。
ミユキはグッタリくたびれて、帰りは眠っていた。あまりにも
ケイコは帰ってきたタカユキから聞いて、真っ青になった。この子がすぐ横で
あの人
に刃物を振り回されていたなんて……。さて、これを機にタカユキは、自宅を買おう、と決めた。ようやく落ち着いて住める。
それと、第二子。ケイコも、ミユキのときは
こんなこと
になって、悔しい思いをしていた。改めてやり直したい、いまでいえば「リベンジ」。それがこの夫婦の本音。ワンクリックで応援できます。
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