第二章 第一節 独り暮らしと電車通学

文字数 2,747文字

「さむっ」身体も歯も震える。
 ミユキは、まだ暗い中を始発停留所で待っていた。ようやく着いた路線バスに乗り込む。座席に座れば、脚が温風で暖まる。

 朝が意外と寒いのだ。
 この市は播磨(はりま)(なだ)に面している。瀬戸内海の気候は乾燥していて、晴れが多い。だから放射冷却が起こる夜が多いのである。
 まだ初春。この朝も寒かった。

 もうすぐ高校生になるミユキだが、中学から既に電車通学をしている。
 中高一貫校で、中学も高校も実質的には同じ学校。高校生になっても同じ暮らしが続くことになる。
 両親の都合で、片道1時間以上もかかる遠距離通学をしている。自宅から駅までは路線バスだ。ミユキの学校は神戸市内。父親は、大阪とは正反対の東播(トウバン)地域にマンションを買った。地価が低いからということもあったがそれ以上に、他人には云えないような事情があった。
 『夢のマイホーム』。もともとは、両親と3人暮らしを続けていくはずだった。

 宅地開発がされて戸建てならばいくつも建ったうちに、一棟(ひとむね)ポツンと建っているマンション。土地が余っているのに集合住宅。異彩を放つ存在感だ。そこも元来は農地だった。周りにはまだ畑も多い。つまり都市部ではなく片田舎で、ヒートアイランド現象なんてものはない。とにかく冷え込むのだ。

 そしてこれも両親の都合で、ミユキはいま、独り暮らしをしている。
 独り暮らしの朝は早く、忙しい。自力で起きなければならない。朝食も自ら作る。服装や持ち物などの準備も全て、独りでする。そのうえ通学時間が長いのだから、起床時刻はさらに早くなる。強いて挙げれば、昼食は学校の食堂を利用するので弁当を作らない、それだけがマシだといえるくらいだ。
 学費も高い私立の進学校で、これほどまでの生活事情にある生徒は少ないだろう。いや、同じ学年には一人もいないかもしれなかった。ただ単に遠距離通学の生徒ならば、新幹線通学の生徒までもいる。裕福な家の子はとても多い。だから、中学生で独り暮らしを強いられているのは珍しい。
 孤独な朝。未明から目覚まし時計で起きる。まともな番組も始まっていないようなテレビをとりあえず()ける。ゆったりとしたテレビの内容と、変わり映えしない毎朝のスポットCM。それが孤独感を少しは紛らわせてくれる。
 朝食はやはり手抜きになる。まともな料理なんてしない。今朝も、電子レンジで加熱したご飯を食べた。割高なインスタントやレトルト物を毎日買っているが、食生活は貧弱で、栄養バランスなんてものもない。苦痛な朝のせいぜいの楽しみは、食べながら少女向けアニメをみることだ。東京ではこんな時間帯には放送していないであろう番組が低い扱いを受けて、まるで肩身狭く、早朝に追い出されているのである。
 そして、電気ストーブで暖まりながら着替える。
 路線バスの本数は少ない。このマンションのために開設された路線なのである。バスの時刻に()に合わせるため、いつも慌ただしい。

 本当に中学生なのか? 自身の境遇を(みずか)ら客観的にみて、そう思うことが多い。まるで自分自身こそが、郊外にマイホームを買った会社員のようだ。周りの同級生を見ても、自分だけ大人なのではないかと思える。それだけではない。大人びているというよりも、老け込んでいる。私ひとりだけ、年寄りだ。

 騒音と、排ガスが逆流したような異臭。ミユキにとってバスは昔からいつも、とても苦痛だ。幼い頃は隣にいた母も、今は座っていない。苦しい。ポータブルCDプレイヤーとインナー型ヘッドフォンで耳を少しでも塞ぐ。パナソニックつまり松下のプレーヤーだが、ヘッドフォンはソニーの868に替えてある。曲を耳にしながらのあまりの眠気に、うつらうつらとした。そうしているとバスの発車時刻になった。バスは駅へと向かう。前方の運賃表示機が変化していく。整理券による距離別運賃は、市内均一の大阪市営バスでは経験しなかったものである。
 気がつくともう、駅の近くまで来ていた。未明の車内にも三宮や大阪方面に通勤する人が乗るとはいえ、それほど混み合ってはこない。駅に近ければバスを利用しないからだろう。駅前のロータリーに着くと、ミユキは定期券を提示してバスを降りた。紙に印字してラミネート加工された手作り感あふれる定期券も、大阪にいた頃には持つことのなかったものだ。
 早朝とはいえ駅に着く頃にはさすがに、いくらか(しら)んではいる。未だ高架化されていない駅だが、通勤客で混み合っていて、改札を抜けるとホームには座席争いの列ができていた。姫路方面から既に乗客が乗っているので、なかなかに厳しい。この朝のミユキは、座席が、獲れなかった。
 通勤電車でありながら、車両はクロスシートだ。座席間の通路に立つと、運よく降りる人がいて座席が()けば座れるが、そこに立ち続けるのは不安定で、通路を移動しようとする乗客にもまれて大変なのである。ミユキは、ドアの脇、座席背もたれの裏側の小さな空間に陣どった。
 鞄を前に回し、ドア横の手すりと座席裏との隙間に押し込んで、(ラク)な姿勢をとる。

 列車が子午線のある明石市を出て神戸市に入る頃、朝日に照らされた播磨灘のさざ波がきらきらと輝く。
 対する車内は混雑していた。

 異様な

がミユキを襲った。
 

は、はじめは触れただけかのように思われた。
 しかし

は、明らかに意思をもって太腿(ふともも)()い上がっていった。
 まさか、私なんかに?
 声は出なかった。声をあげなかった。
 何が起こっているのか。ミユキの頭の中でも、事実としては理解していた。
 だが、まるで時空が(ゆが)んだかのような非日常が周りだけで生まれて、世界から切り取られているかのようだ。ミユキにはそう思われた。
 どうしたらよいのか。
 いや。どうしたらよいのか、考えられなかった。
 それは、次の停車駅まで続いた。

 哀しかった。涙は出なかった。

 なぜ、こんなことをするのだろうか。

 相手が中高生だからといって、まるでモノを扱うかのように、性癖を満たすために、もてあそんだ。
 オモチャのように。
 人形のように。
 使い棄てとして費消された。
 同じ人間だと思ってはいないのだ。オブジェでしかない。

 そして、性癖に冒されてもいるのだろう。人間性を失っている。

 可哀想(かわいそう)だった。

 加害者はいつも、可哀想だ。
 世の人々は、私と違って可哀想だ、自分自身のことも自分でわからないのだから。昔から思う。

 それが去った(あと)も、ミユキの頭の中ははち切れていた。涙が脳内に溢れているようだった。

 いつの間にか学校の最寄り駅に着いていた。

 この被害体験も、ミユキにとって一生忘れられない傷になった。そしてますます、他人に触れられることが恐怖と苦痛になった。

そして、学校までの道のりも、学校の中も、いつも陰鬱だ。

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