第五章 第四節 母親の心身

文字数 3,484文字

 母親が無事に戻ってきて、ミユキは安心した。ミユキにはエゴがない。つまり、自分の損得勘定(ソントクカンジョウ)の感覚もない。母親の愛情を受けられるかどうかという発想は出てこなかった。一心同体の母親が戻ってきたことにただ、ほっとした。祖父母のもとで暮らしていたあいだに、もともといくらかついていたミユキの「ものごころ」は、ますます発達していた。
 買って住み着いて二年もしていない新築マンション。自宅は慣れているほどではないが、どこか懐かしくもある。元の生活に戻るということ。それはまた、父親の横暴が再開されるということなのだが、退院したばかりで傷ついた妻に暴虐を振りかざす気までは出てこなかったのかしばらくは、なりをひそめていた。

 母親は退院したところで万全とはいえない状態だったが、ミユキも母親も含め母方の親類一同で分担するように相次いで、曾祖母のもとを繰り返し訪れるようになった。
 そしてミユキと母親が一緒に二回ほど訪問したあと――曾祖母が、亡くなった。もう七十代。一言でいえば「老衰」と、「長生きした」「大往生だった」と遺族のあいだで口々に話している。つまりは、身体が弱って「もう長くない」と()られていたから、ここ何か月かはずっと、皆でなるべく足しげく会いに行っていたのだ。そのおかげでミユキも曾祖母に何回も会い、よい思い出になったし、ミユキの母親もその祖母が生きているあいだに会えて本当によかった。
 母の母の母が亡くなった。この曾祖母の死が、ミユキにとって初めて、人が死ぬということの実体験になったのである。「亡くなる」ということ、本当に「いなくなる」ということ。人は死ぬものだとは知っていたが、実際に生きて会っていた人が死ぬのは初めてだ。これから周りがどうなって、自分の思いもどうなるのか、知らない。
 大阪の都心だとはいえ下町である。葬儀は地元の寺院で行われた。葬式の手順が次々と目まぐるしく進む。幼いミユキには何がなんだか判らないまま正座でじっといる。まるで取り残されたみたいだった。いや、寺を出ると祖母や母親が斎場に行ったなかで、ミユキは伯母とともに残された。伯母も我が子で手がかかるので、独りだけ置いておかれたようなものだ。その、ぽつねんとしたときの感覚を、ミユキはずっと憶えている。会いに行ったとき、みんな別の部屋で長々としゃべっているあいだも、私はひいばあちゃんと一緒にずっと寝ていたのに。なんでやろう?
 遺族のなかからも、読経(ドキョウ)が済んで寺を出たときには「足しびれ切れたわぁ」などとのんきに軽口をたたいていたのがいたくらいだから、思いのほか悲痛さがない。一同にとってこの死は納得のゆく迎えかただったのだろう。祖母も母親も悲しんではいたものの、高齢でそのうち亡くなるものだと覚悟していたからか、繰り返し会っていたからか、なにより「天寿を全うしたのでよかったね」ということなのだろう、それほど気の抜けたようにはならなかった。葬式が済んで、法要もドタバタと繰り返されたが、「七七日(なななぬか)」いわゆる「四十九日(シジュウクニチ)」も過ぎてしまえば、ミユキから見ればまるで、いままでどおり。
 ただ、祖父母の家の仏壇には曾祖母も加わった。「ひいばあちゃんが仏壇に入っている」、それからは曾祖母との「窓口」としても、家に来たときには真っ先に、母親と一緒に仏壇に向かった。繰り返すうちに、ミユキは(リン)を鳴らす担当になった。祖父母の家は「なむあみだぶつ」である。十回(とな)えたあとに、つぶやくように小声で何回か繰り返す。そのささやくくらい小さな「なむあみだぶつ」がなんとも、もの悲しいものだ。とりわけ祖父母のそれは、母親やミユキがするのと同じには聞こえない。戦争経験の哀しみも加わっているのだろう、ミユキにも判っていた。
 ところで祖母は、亡くなったはずの時刻の直前に「お母さんが会いに来た」という。母親の血筋にはどうやら、「霊能力」があるらしい。

 母親はミユキに、これまで以上に愛着をかけるようになり、教育熱心にもなった。入院していたせいで空いた期間を取り戻そう、そう思ったのもあっただろう。ミユキのほうも、母親の様子がずっと心配で、いわば顔色ばかり気にかける、意識的になついて「おかあさんすき」とわざと微笑み、喜ばせようとしつづける毎日だ。ほかの子たちならばたぶん、自分のことばかりで勝手気ままな人が多いのだろう。ミユキは、自分のことだけではなくむしろ、まるで母親の面倒をみているかのように生きていた。
 その母親だが、外に働きには出なかった。心身の具合からいって無理があったということもある。両親は検討したこともあったが結局、ミユキを保育所に入れることはなかった。それで母子は終始、一緒に暮らしている。買物に行くときも、美容院に行くときも、医療機関に通院するときも。いわゆる平日の日中は二人しかいないので、外出すればトイレにも二人一緒に入ることが多かったくらいだ。なにせ、幼いミユキを独りで置いておくことは危険だから。「もしもなにかあったら」と思う。それでトイレに一緒に入れる。母親が「生理」で出血しているところも、嘆くように苦しんでいるところも、ミユキは憶えている。「だいじょうぶ?」と訊くと「お母さんだいじょうぶやから」と返ってくる。「痛くないのん?」「痛いけど、だいじょうぶ」。ケガや病気でなくとも、血が出たり痛かったりすることはある。そういうものなのだと知った。
 国道沿いの分譲マンションの中層階にある自宅。母親は、バルコニーへの(はき)出し窓のガラスに、ひらがなの表を貼った。しかし、ミユキがそれを憶えてしまうのは早かった。ひらがなもカタカナも憶えてしまったのでもう、漢字になる。休日などには祖父母が我が娘と孫の様子を見に来訪して、そのときにミユキにはおもちゃとともに『下村式 となえて おぼえる 漢字の本』も小学一年生用から順に買い与えた。幼稚園に通う前から早々と、漢字を習得し始めていたのである。
 文字が読めるようになったのが早いものだから、自力で本が読めるようになったのも早い。しかし両親はミユキを外に預けることはしなかったから、公文式の教材を買い与えたり、子ども向けの書籍、小学館の学習雑誌などを買い与えた。その子ども向けの書籍というのは「フォア文庫」や講談社「青い鳥文庫」、ポプラ社の小説などである。いわゆるマンガは『ドラえもん』だけ。もちろん、学習雑誌にはマンガも載っているが、ミユキが(たの)しみにしていたのは「ふろく」のほうである。付録を組み立てる工作に興味があった。学習雑誌のほうは原則として自宅専用だ。公文式教材や子ども向けの小説は、美容院や医療機関などでの待ち時間を過ごすときに進めることも多かった。
 そもそも、もともとからしてミユキは「フツーの子」ではなかったから、同年代の子たちとは全く合わなかったのである。「公園デビュー」なんてしても散々だ。なぜならば、よその子たちは自分勝手で容赦(ヨウシャ)ない。この年代の子たちは一般的に考えなしで、力のせめぎあい、わがままのぶつかりあいで事実状態ができあがる。本当の意味でのコミュニケーションはない。しかし、ミユキには自意識があり、自制心が強く、危機意識も高い。どうやってもかみあわず、ミユキのほうが一方的に辛抱するしかなくなってしまう。ミユキの側の「社会性」の問題というよりもむしろ、同年代の子たちがミユキに「追いつけない」ことの問題だった。ミユキは、わがままに乱暴をする悪をもちあわせていない。どうやっても、噛み合うはずがなかった。だから、あそび相手はいつも母親だ。それか、独りか。それはそれは、ミユキは保育所に入れる人間ではなかったわけである。「妹か弟が欲しい」と母親にせがんだ。
 ミユキにとって、他人は危険であり、恐怖だ。大人たちは自制心はあっても、年齢で差別する。ミユキを見下して、さげすむ。それにミユキからすると、他人の顔を見ると感情が判ってしまうので苦痛だ。哀しくなる。だから外では、ミユキはなるべく、顔を上げない。そして、母親に付いている。それで、雨の日にはほっとする。なぜなら、ベビーカーでカバーを掛けた状態で外出するからだ。透明のカバーでも、周囲からは中がよく見えない。雨粒が着くからなおさらだ。ミユキは、このカバーに着いた雨粒が、集まって、大きくなって、表面張力が崩れて、川になって流れ落ちていく、その不可思議な様子を眺めるのがスキだった。

 さて、退院してから母親の行動に変化があった。祖母が付き添って、通うようになったのである。「水子供養」に。
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