第十二章 第一節 家族

文字数 2,357文字

 タカシは嘆いていた。

 あの松山大空襲で父母と兄の三人を亡くして家族のいなくなったタカシ。もう独りしかいない家を嗣いだ。
 戦後まもなくして、宇和島の伯父の紹介で婚姻して妻カズコを得た。日本が敗戦してまだ数か月、空襲で家族三人が死んで喪中だったが、そうもいっていられない。家族がおらず家に独りしかいないのはさすがにまずかろう、という話だった。もちろん仲人をしたのも伯父だし、そもそもまだ未成年であるタカシの親権者になっていたのも伯父だ。また、妻も未成年だった。
 タカシは杖を突きながら独りで歩けるようにはなっている。杖なしで歩こうとすれば「びっこ」になるし、少ししか歩けない。それでは平時ならば妻を得るのがたやすくはないところだが、戦後の復興に向けた機運と、家を背負っているという事情があったから、早々に話がついた。戦争がなければ三男坊で跡取り息子でもなかったタカシにはこうもうまくいかなかっただろう。そしていま、戦地からの引揚げもあるとはいえ、若い男の数自体が減った。女は男に養ってもらえなければ生きていけない、娘をもらってくれという話は多い。本音を言えば、こんな物がないときだから娘が嫁に行ってくれれば楽になる、ということでもある。
 タカシは未成年にして、中谷(なかや)の家とその不動産業の後継者になった。しかし松山市内の物件もやはり空襲で燃えてしまったので、タカシ自身が管理しきれないのもあって新築することをあきらめた。だから土地だけ貸して借主に建てさせてもみた。郷里の農地は中谷一族全員の所有地をいまも管理している。
 タカシは、灰となった自宅跡に粗末なものをかろうじて新築して、夫婦で住んでいる。郷里からの地代もあるので食ってはいける。戦時中と比べれば政府からの極端に理不尽な徴発もなくなった。相変わらず物が足りないが、「ヤミ」で取引される物ならば買える。物価の著しい上昇が止まらず大変だが、中谷家には地代として現物も上がってくるので、飢え死ぬようなことはない。
 さっそく子どもをもうけた。産まれたのは長女。ユキエと名づけた。これでタカシ独りになっていた中谷家ももう家族三人。独父母と兄二人を戦争で亡くして取り残されていたから、我が子の誕生がことさらにうれしかった。とはいえ、肝心の長男が要る。妻カズコにはまだ頑張ってもらわないといけない。

 ユキエが産まれてすぐ、それは昭和二一年の秋のことだった。
「農地改革」が決まった。日本を占領した連合国軍総司令部、略してGHQの意向を全面的に反映させたものらしい。つまりはアメリカさんの命令だ。
 その「改革」の内容が極端なのである。不在地主の農地は全て国が買上げ、小作人に譲り渡して自作農にする。土地の買上げ代金はわずかなもので、まさに二束三文(ニソクサンモン)という感じなのだ。いままで先祖代々継続的に地代が上がってきたものが、少しのあいだ一時金が渡されるだけで、あとは何もなくなる。こんな極端なことになったのも、GHQのマッカーサーが決めたことである。先年に政府が出した当初案ではここまで厳しくなかったらしい。
 中谷一族は不在地主である。一族みんな大騒ぎだ。郷里の土地は全て奪われる。地代収入もなくなるが、それだけではない。生まれた郷里を失うことになる。しかもタカシはまだ若い。三男坊なのに、独り遺されて家を背負っている。妻子も背負っている。そのうえ、片脚の不自由な身体障害があるのに。
 厳しいことになった。地代で定収があるからなんとかやっていけると思っていたのに。どうすれば生きていけるのだろうか。買上げられる立場も考えてほしい。
 俺の人生、振り回されっぱなし。タカシは嘆いていた。

 サチエが産まれて二年半ほど経って昭和二四年、第二子も生まれた。今度は長男である。これでひとまず、家系については落ち着いた。それに、養うのにも一家四人までが限界だろう。長男にはタカユキと名づけた。
 問題は収入である。物価の騰貴(トウキ)はますます著しい。他方で中谷一族の郷里の農地は買い上げられて、手元には農地()買収者国庫債券、いわゆる農地証券というものが渡された。これはいずれ償還つまり払戻がされて現金になる有価証券である。一族の所有農地を管理する立場を継いだタカシは、一族全員分の農地証券も預かった。
 しかし物価が上昇しているからますます、償還金なんてたかがしれている。金額は同じでも、受け取るときには価値が激減しているのだ。物価にあわせて金額が増えるならばよかったのに、これはGHQではなく政府のほうが難色を示して、そうはならなかったらしい。ときにGHQが、ときに政府が。互いの言い分に巻き込まれ、いつも損を押し付けられている。
 ますます厳しい。もう稼ぎが足りない。これから食っていけるのか? 世間からは「びっこ引き」と侮蔑(ブベツ)されている。びっこ、びっこ、と言われる。練習を重ねてもう、ゆっくり歩くだけなら平気だが、この身体では働き口も少ない。もう成人もしているし、自力で稼いでいかなければ……。
 なんとしてでも、家族三人、養って生き抜いてみせる。
 カネがない。農地を失って地代収入もなくなって、妻と二人の乳幼児を抱えているタカシは当座の生活費のために市内の物件までも手放すことにした。
 お国が戦争をして、敗けて。しきたりも、代々にわたって築き上げてきたものも、全てひっくり返されてしまった。まだ若かったタカシは、なされるがままでいるしかなかった。
 反感が募る。しかしもう初めから、まっさらなところから、新たな中谷家を築くしかない。

「農地改革」で発行された農地証券は結局、券面上の期日どおりではなく、時期を大幅に繰上げて償還された。
 タカシの手元の農地証券が全て現金になったのは、一九五一年、昭和二六年のことだった。
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