第十七章 第一節 ミユキ、走る!

文字数 2,885文字

 ミユキが二歳ころのこと。住まいは北大阪地域の、また別のアパートに引越していた。ここも坂の街である。
 大阪というところは、大阪市内はほとんど平らだ。東京都心つまり江戸とは正反対である。大阪平野(ヘイヤ)はおもに淀川が、それと大和川(やまとがわ)なんかが、土砂を堆積(タイセキ)させた土地だ。上町(うえまち)台地のところくらいはやや上がっていて――そこは大坂城が建てられた辺りであるが――その上町台地を例外とすれば、あとはほぼ平地である。ましてや大阪湾に近くなれば埋立(うめたて)地で「海抜(カイバツ)(ゼロ)メートル地帯」と呼ばれる。大阪市を外れて内陸に入ればようやく、標高が上がってくる。北大阪地域の、例えば豊中(とよなか)市や高槻(たかつき)市なども、丘陵(キュウリョウ)で標高が少し上がり、坂もある。
 別のアパートに引越したのは、タカシらにまた襲われたからではない。とはいえ、見つかっていないかどうかは判らないが。ともかく、あわてて引越した先のアパートが手狭(てぜま)で暮らしにくく無理やりだったからだ。急いでいたうえに予算がなかったのだから、しかたがない。ミユキは大きくなっていき、はいまわるだけではなく、いよいよ立つところまできた。満一歳にもなればかなり多くの子どもが立つようになるし、それを過ぎればいよいよ歩くようになる。ミユキも例外ではなかった。それにしたがって、家が狭すぎる、ということになる。
 ちなみに自家用車は追突事故にあって、廃車にした。それからは自動車を買っていない。事故にあうことをタカユキもケイコも怖れていた。
 タカユキは、意に沿わないことがあったりすると、突然カチンときて怒鳴り散らす。職場でのイライラを持ち込んでもいたが、タカシの殴り込みの件があってからはなおさら酷くなった。
 そしてケイコはますます臆病(オクビョウ)で神経質になった。それでも、男の人はこういうもんやから……と、自らに言い聞かせる。これが普通や、と。そんなケイコも、ときにはこらえかねることがある。そういうときでも夫にケンカをふっかけることはかった、そもそも夫は恐いので。勝てないことはもちろんのこと、力でたたきのめされるのがみえている。夫に従順な妻がいい。それで辛抱(シンボウ)が過ぎるとケイコはひとり、錯乱していた。騒いだり手近な物を投げたりする。ミユキはそれを見ていたし、タカユキのいるときにはミユキを奥に引っ込める。
 ミユキは食が細い。ほとんど騒がない。ましてや暴れたりはしない。それらは父親が怒るからなのもあるし、メシ抜きや、になるからでもある。そんな事情をケイコは誰にも話せないし、ましてやミユキは話せないだけではなく異常性自体にも気づけるはずがなかった。

 マサコは今もときどき、ミユキやケイコに会いに来る。反対に二人で実家に行くこともある。もちろんヨシアキの居るほうの実家である。ちなみにマサコが来る頻度が減ったのは、長男つまりケイコの兄に、娘ができたからだ。そちらのほうが、手がかかる。それになんだかんだいっても、ケイコもミユキも中谷家であって、森本家の人間ではない。
 マサコはミユキにとても、とても、優しい。孫なのだから当然なのかもしれないが、おそらくそれ以上に優しい。父方(ちちかた)の祖父母からは愛情を受けるどころか酷い目にあい、それで交流が途絶(トだ)えている、そのぶんだけ二倍以上の愛情をかけようとしたのかもしれなかった。
 そんなだから、ミユキは祖母マサコのことが、スキだった。しかしそれ以上の理由がある。マサコはケイコの母であり、つまり、お母さんの味方だから。
 阪急電車の駅の周りのほうが栄えているのだが、アパートの最寄駅は国鉄だ。その駅からマサコはアパートまでの坂を歩いて登ってまでしてやって来る。まだ四〇代なかばだとはいっても、足労(ソクロウ)なのには違いない。それでもヨシアキが国鉄マンなのだから、国鉄のほうが思い入れが強い。官舎(カンシャ)に住んだし環状線に乗って暮らしてきた。阪急電車がキライだというわけではないにしても。あの栗色の阪急は阪急で、上品で気分はよい。
 マサコは、孫があまり食べないことも、体つきがよくないことも、心配していた。子どもなのにおとなしすぎることも。あまりにも、もの静か。かといって頭が悪いわけでもなく、云われることを理解していて、周りをよく観察している。娘と話しているときにもジャマをしてこないで静かにしていて、周りをキョロキョロ見まわしたり考えごとをしているようだ。歳に不相応(フソウオウ)で怖いほどに大人(おとな)びている。

「ほらミユキ、おばあちゃん来たよ!」
 マサコが家に行くと、ミユキはケイコに連れられて、まだ足もとはおぼつかないが寄ってくる。手を引かれれば外でも歩けるくらいだから。
 ミユキがたどり着くと、かがんで、「おばあちゃんですよー」と抱きしめる。はたしてそのミユキの顔つきはタカユキにもいよいよ似てきた。マサコはもともと娘を疑ってもいなかったが、思ったとおりだ。内心、タカシらのことをザマミロと思うところは、ある。

 そしてこんなだから、ミユキはおばあちゃんがスキなのである。お父さんもお母さんも、いきなり変わってしまうことがある。イライラピリピリしている。おばあちゃんにはそれがない。

 マサコが来訪したある日のことだった。マサコがいよいよ帰るとなり、ケイコに手を引かれてミユキもアパートの前の坂道へと見送りに出た。手を振りあって離れていく。
 少し(くだ)るたびに振り返って手を振るマサコ。何十メートルか()りたときだった。
 ミユキは母の手を離してマサコのほうへと歩き出したのである。それはいいのだが、歩き始めたら(くだ)り坂だ。重力で次第に勢いがつく。まだ幼い身体のミユキには、その勢いを支える力がない。
 止まれない!
 直滑降(チョッカッコウ)ではないが、まるで転がり落ちるように勢いよくなだれ込んでいく。止まりかたを知らないのではない。止まれないのである。
 転ばないため、とにかく懸命だった。ただごとではない。
 怖ろしい思いをして物凄い勢いでマサコのもとにたどり着いて、ようやく止まれた。ミユキにとってそれが初めての、走るという体験だった。
 ちなみにこのできごとは、のちにもマサコの語りぐさになってよく笑い話になったことである。それは、あの頃は笑えないことがあったからの裏返しでもあった。タカシらの暴力は、忘れるように笑い飛ばしたかったし、ミユキには隠しておきたい過去である。
 さて、周りには笑い話だし、あとになってみれば笑い話ですむ。しかしあのときのミユキにとっては、笑っていられることではない。死ぬかと思った……というか、「死」の概念もまだよく理解していなかったが。ただただ幼くして危険と恐怖ばかりは百戦錬磨(ヒャクセンレンマ)のミユキだから、走り()り続けないと大変なことになるその危なさは直感的にとても鋭く解っていたのである。
 しかし、なぜミユキがマサコが帰ることをそれほどまでに惜しんで、思わず母の手を振りほどいて飛び出したのか。それはミユキ自身でもそのときには言葉で説明のしようがなかった。

 ――あの苦しくツラい日々から逃げ出したかったからだ。

 そんな「日常」のなか。
 タカユキは自分に顔が似てきたミユキを見て、そろそろ頃あいやないか、と思っていた。
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