第十章「安全神話」

文字数 4,754文字

 ミユキは独り暮らしをしている。また、である。ことあるごとに「家族三人で暮らすため」という理由で引越をさせられるのだが、そこでまた

が起こって独り暮らしになる。くりかえし。
 大学生になってミユキは、いわゆるアルバイトを始めた。とはいっても、派遣社員。派遣契約の形態以外にも、請負のあっせんの形態もある。ITエンジニアということで。まだ二十世紀の時代だから、その手の能力のある人の供給が多くはなかった。それほど高い能力がなくとも、稼いでいける。
 大学生になるまでアルバイトを始めなかったのは、なにも特殊な理由があったわけではない。大学受験に専念するためという、ありがちな理由。しかしそうまでしても思いどおりにはいかなかったのは、パソコンやパソコン通信、インターネットのやりすぎだったからなのかもしれなかった。しかしむしろ根本的な原因は、(ウツ)。もっとも、「うつ病」という診断を受けていたわけではないが。両親など周囲から云われても何もやれないほどであったわけでもなく、だから自ら精神科などに行くこともなく。そもそも両親はミユキの様子を真剣に気にかける余裕がなかったのだが。ただ、「抑うつ状態だ」というのなら、それは間違っていない。

 それで、やっている「派遣の仕事」。業務内容の多くは、人手が一時的に必要になったから臨時で依頼する、といったたぐいのもの。例えば、企業が拠点のパソコンをまとめて買換えるから設置やインストール作業をしてほしい、とか。それに一時期は、いわゆる「二〇〇〇年問題」に対応するために全社の端末を調査するといった一大プロジェクトを抱えていた企業が多く、その「特需」もあった。それほど高度なスキルがなくてもやれる。
 一日や短期間で完了する業務は請負契約のほうが多く、他方の長期間にわたり続くプロジェクトとなれば派遣契約の形態をとったりする。いずれにしても依頼主は、短期の労働力調整のために正規雇用だと割高になるから、人件費をカットして労働力を調達するために「学生派遣」を利用する。だから依頼主からすると、時給換算でみたら高額になる。だが、あいだに入る派遣会社の取り分があるため、労働者の手もとに渡る金額は少なめになる。それでも世間のアルバイトの時給の相場と比べて競争力があるから、こうした派遣会社のビジネスモデルが成りたっていた。その「ピンハネ」の金額がバレると困るので、受取る金額を依頼主に言ってはならないというルールがあったりする。さらにこの、いわゆるIT業界、下請(したうけ)はもちろん、孫請・ひ孫請も隠れて横行していた。そのあたりは、業界の「闇」である。根深い。顧客には、元請の社名を名乗らないといけない。

 さて、いまミユキがやっているのは、サーバ監視である。顧客のサーバやネットワークに障害が起こっていないか監視する業務を受注している企業があって、営業日の日中は従業員が「ながら作業」でやれるからいい。しかし夜中や休日は従業員が出勤しない。だから、障害発生時にアラームを鳴らす「ポケットベル」を携帯させて対応していた。だが、それも無理を感じたのか、「非正規」の監視要員を手配してきたのである。数少ない正規社員に時間外勤務をさせたくなかったのだろう。しかも時間外手当を出さないといけないのだから。
 勤務する学生派遣社員としては、夜勤や休日返上にはなるからその負担はあるが、都合のいい話でもある。大学に通ったことのない人にはわからないかもしれないが、大学生というのは「フルタイム」ではない。科目登録した授業次第で、「空き時間」が発生したり「授業は午後から」という曜日ができたり「週休三日」ということになったりするのも珍しくない。たとえば、午前中に授業が入っていない日の前夜に夜勤にしても、帰って数時間の仮眠がとれたりする。週休三日の学生なんて、土日を返上したって休日がなくなるわけではない。授業にまともに出ない大学生も多いが、授業にちゃんと出席していたとしても、時間に融通が利くのである。しかも、大学には授業がない期間が長い。今は三月。大学に行ってやることがあるとしたら、サークル活動が多いのだろう。

 その日は夜勤で勤務していた。夜十時から朝六時まで。勤務地は、自宅から東京に向かうのとは反対側。オフィスへの道のりは、退勤して遅く帰ってきたのだろう、そんな人がちらほら見受けられる。そんななかで、これから勤務というのはいつも、なんだか不思議な感じがする。コンビニで食べ物や飲み物を買って出社。オフィスには電気ポットもあってインスタントラーメンでもつくれるようにはなっているのだが、ミユキは弁当やサンドイッチなどを買っていくことが多かった。オフィスビルの出入口は夜間態勢、警備員に言って名簿に記入し入館する。ビルのなかは人の気配がほとんどなく静まり返っている。
 職場に着くと、社員から「ポケベル」が引き継がれる。東京テレメッセージのそれは、かつては憧れみたいな存在だったが、もう時代を何周おくれかしていた。もはやポケベル本来の使い方ではない。本来ならばポケベルは、「外まわり」で出かけている従業員に対して連絡をつけ、公衆電話で折返し電話をかけさせるために持たせていたものなのだ。ミユキには、こんな業務を請けたからこそ初めて手に触れる機会ができたもの。そもそも、この派遣会社に登録して初めて、NTTパーソナルのPHSを持たされたくらい。それ以前は携帯電話も何も持ったことがない。しかし世間はもう携帯電話の時代で、いまやポケベルは廃止を検討するような頃あいになっていた。
 業務は、何もなければ暇なものだ。やらなければいけないことといえば、異状がないかを定時に確認。もしも異状があったら担当社員に連絡するわけだが。あまりにも暇だから、MP3プレイヤーで音楽でも聴きながらウェブブラウジングしているくらいである。ただ、もしも顧客から電話がかかってきたら応対する。二四時間三六五日にわたって監視して対応することになっているからだ。電話機は三台あって電話番号も異なる。そのうち二台には別の会社の名称が貼ってあった。元請け会社の名が。電話をとるときは元請け会社を名乗らないといけない。
 しかしその夜は、思いもかけぬことになった。顧客法人のひとつである医科大学のシステムが

。向こうのサーバから反応が来なくなった。何台も。独りしかいない夜中のオフィス。社内サーバの冷却ファン音で満たされた静かな空間を破って、電子音が何回も鳴り響く。
 電話がかかってきた。とってみれば、この医科大学の人である。医師で大学教員なのかもしれない、尊大な態度で、イラついている様子だった。しかし怒られても困るわけで。なにせミユキにはなんとかなる問題ではないし、もちろんこの障害はミユキのせいでもない。恐れおののきながら「折返し再度連絡します」ということで電話を切る。
 夜中だがもちろん、事態に対応する社員には連絡がついた。客先には彼に直接対応してもらうことになった。
 しかしポケベルは、くりかえしくりかえし鳴りまくる。もう判っているのに鳴り続ける。うるさくて苦痛。なにせこれは、人に気づかせるためのアラーム音なのだから。それに、ポケベルを鳴らすたびに電話代がかかっているのだろう、それは会社が払うことだとはいえ、なんだかバカバカしい監視システムだな、と思った。
 ミユキには、現場で何が行われているのか全く知れないまま。サンドイッチでもくわえて、サーバの反応を確かめる「ポーリング」の結果を見ているしかない。たしかに暇……ではあるのだが。夜食もとったし。
 何時間も続いた末に、システムは正常に回復した。見ているしかなかったのだが、ポケベルに大騒ぎされたり、医大の人に怒られたりと、修羅場の一夜だった。
 物は壊れる。機械はいずれ故障する。そもそも、人間のつくったシステムなんだから、決して完璧にはならない。ソフトウェアにしたって、必ず

がある。
 朝、勤務時間終了時に日勤の正規社員が出社してきたので、報告書に記入して引き継ぐ。報告書といっても、テンプレートがあるので枠を埋めるだけなのだが。「大変だったね、御苦労さま」とごくごく簡単にねぎらわれた。
 まだ朝六時なので、退社時もオフィスビルは閑散としている。東京ではないとはいえ都心部なので、この時間帯に出勤中の人もあまり見かけない。夜勤というのは、世の中から弾き飛ばされたような独特の孤独感がある。実際には、夜勤の割増賃金を受け取れるうえ、さらに業務内容がラクなんだったら、とても恵まれているはずなのだが。

 電車で、独り暮らしの自宅マンションに帰る。家は高校一年生のころから変わっていなかったが、家族三人用に借り始めたものだから、またもやムダに広く、悠々としていて空しい。
 帰り着いて、シャワーを浴びて、食事をとって、一息ついて。テレビをみていると、緊急ニュースが入ってきた。

 ――営団地下鉄の駅構内で脱線事故がありました。

「地下鉄サリン事件」のときに足止めを食ったあの駅だ。
 (くだ)りで乗客が乗っていない列車。その軽い車両が脱線。すれちがう満員電車に接触したらしい。
 もう眠れそうにもなく、ニュースをずっと注視していた。乗客を懸命に救出する現場。映像を見ている。満員電車の中間車両の連結部に、脱線した車両が

ようだ。いわゆる「オフセット衝突」みたいなかたち。だが、自動車ではなく電車なので、衝突してもモーターはしばらく駆動し続けて損傷を拡げたのだろう。
 事故の死者は何名も出た。そのうちの一人は高校生。期末試験のために登校時間が授業日よりも遅かったため、事故にあったらしい。
 ミユキは、終業式で登校時間が遅かったから「地下鉄サリン事件」にあわずに済んだ。ときは同じく三月。反対にこの高校生は、期末試験で登校時間が遅かったから脱線事故にあった。
 もちろんミユキは、この事故とは一切の関係がない。それなのに、いたたまれない気持ちでいっぱいになる。

 ミユキは国鉄マンの孫だからなおさらに、鉄道事故には心が痛むし、複雑な感情が沸いてくる。昔から、大きな鉄道事故はくりかえされてきた。脱線事故も多い。
 今回は、車両が軽すぎたから脱線しやすかったのだろう。昔に比べたら近ごろは、コストを削るために車体の材質を改めたり軽量化したりするようになった。鋼鉄ではなくて、アルミニウムにしたりすらする。車体の外壁も薄くするし。
 それに、ガードレール。「護輪軌条(ゴリンキジョウ)」というけれど、脱線防止のために設置可能なそれも、駅構内の

切替えが多く急な動きをするところなのにもかわわらず、事故現場には設置されていなかったらしい。それもたぶん、コストカットなのだろう。
 鉄道も人間の技術なのだから、そして人間のつくったものなのだから、完璧ではありえない。人間の(あやま)ちで、人命だって失われることがある。技術を過信するということは、人間自身を過信するということ。思い上がりなのだ。しかも、お金。「きっと大丈夫だろう」と思いたくて、そう思って、ギリギリまで切り詰めてしまう。
 鉄道だけではなくって、将来にはITだってたぶん、人命にかかわる事故を起こすことが出てくるのだろう、そう思う。それは、医療現場で起こるのかもしれないし、交通で、かもしれない。
 プロですら過信しかねないくらいなのだから。よくも解らない大多数の素人なら、プロが宣伝のために言ったことを信じ込むだろうから、なおさら。

 鉄道はまたも、運転を再開する。事故現場にも電車が走る。大学に行くのに乗換で降り立ったその駅で。ミユキはまたも、なんともいえない感情に襲われていた。
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