第十五章 第三節 ケイコの出産計画

文字数 3,006文字

「アンタ、ウチの財産(ぬす)む気やろ」
「ちがいます」
 はっきりと否定する。
「そうじゃありません」
 結論は決まっている。
「このドロボー」

 カズコのイビりはエスカレートし、害意をますますフツフツと感じさせる。ケイコの子どもの週齢が進んでいるからだろう。おなかはどんどん大きくなっている。このままいけば出産だ。カズコやタカシの面々は、ケイコのおなかの子どもは自分らの孫ではないと思っている。思いどおりにならずイラ立ち、あせっている。
 泥棒一家は、泥棒に敏感だ。人間不信。

 会社から帰ってくると、家の様子がおかしい。いや、おかしいどころではなく散らかり果てている。事件か? さすがのタカユキも気がついて問いただすと、問い詰められたケイコは渋々ながら白状した。それでも義母のことを悪くいわないケイコ。
 仲がうまくいっていないんやな、程度に思った。ケイコが当たり散らして暴れた。ただ、いよいよこれから難しいときやのにな。それに、このままやと何が起こるかわからんし、隣近所から苦情が来る。なるべく会わせへんようにしよう。
 これやから女というやつは……。

 タカユキは、なんだかんだと理由をつけて、自分の実家にケイコが行かなくて済むようにした。一緒に行ったとしても、ずっと近くについていなかったとしたら何があるかわからない。ケイコのおなかの子が心配だ。それに、宗教の勧誘がまた始まるのが目に見えている。なによりそれが面倒くさい。
 面倒なのだ、自分が厄介(ヤッカイ)ごとに()うのが。実際のところ、タカユキには妻をかばおうという気はなかった。
 普通の家ではありえない異常事態なのだが、夏になってもお盆になってもケイコには顔を出させないで、タカユキひとりで実家に立ち寄った。そもそも、理容ナカタニの休業日は月曜日。タカユキの休みは日曜である。つまり、日曜に実家に行ったって営業日なのだから、昼休みなんかにパッと顔を出して挨拶(アイサツ)してメシ食ってサッと帰ればいい。余計な話は一切(イッサイ)しない。
 逃げる。うまくかわせばいい。このまま逃げ続ければ、子どもが産まれる。産まれたらいずれ、誰の子どもか、見ればハッキリする。時間かせぎ。時間が解決してくれる、そう思っていた。

 子どもがおなかを()る。ケイコは、母マサコと、また、夫と、そんなことをたびたび話した。蹴るというか、たぶん、おなかが狭いのである。ヒトの妊娠期間は長い。
 タカユキはお金がないと言いながら、軽自動車を買った。借金はせんと言って中古だ。放出(はなてん)中古車センターで買ってきたのかわからないが、そのボロボロの旧車は高い買物ではないとはいえ、自分だけで勝手に決めて買ってきてしまった。累積(ルイセキ)走行距離もそれなりに多く、維持にかえって高くつくかもしれない。阪神高速を走ってもガタガタ揺れて車体の浮き上がりそうなこれでは堅実なのか貧乏なのかケチなのかわからない。とにかくそれに家族三人を乗せる気でいた。駐車場はアパートの隣にある。
 マサコが確認しながら、出産後に必要なベビー用品も買いそろえた。

 出産

日が近づいてくる。
 タカユキに産休はないが、会社にいるあいだに何かあるかもしれない。結局、マサコの厚意にあまえて平日をお願いする。出産となると、自分の実の母親がついているのが安心やろう。それは単純でありきたりな考えだが、間違えてはいなかった。それで結果的に、カズコは来ない。

 孫の誕生を心待ちにしているヨシアキとマサコ。

 予定日は――過ぎた。

 産まれない。

 まだ産まれない。

 あまりにも遅いので、母親の体が耐えられない、入院して薬で促進(ソクシン)して産みましょう、ということになった。医者に(すす)められたのである。
 そうなると出産は偶発的ではなく、計画的なイベントになる。日曜日に入院して、タカユキは有給休暇をとって月曜日から出産を試みる。街の産婦人科ではない。総合病院で、だ。
 だからこれは出産予想日ではなく、本当に出産予定日である。出産というこの大変で命がけで思いどおりにいかない可能性もあること。入院して出産するよ、という手はずを、予期している双方の両親に話さないわけがない。当日に見に来られるように。
 贅沢(ゼイタク)にも病室は個室。日曜日の入院はタクシーで、タカユキが付き添った。わが娘を心配するヨシアキとマサコも面会する。国鉄マンは国家公務員で、ヨシアキも通常は日曜が休み。もちろんこの日もだった。反対に月曜は出勤だから、妻マサコに任せる。孫が産まれるというときに見に来るのはごく自然なことで、なんの不思議もない。しかしさて、問題はタカシとカズコだ。そしてそれは思わぬときにやってきた――。

 入院して、みんな帰って独りになった夕方。
 明日は出産。母も夫も付いているけれど、初めての出産で想像もつかない。ケイコは穏やかではいられない。とても神経質になっている。

 久しぶりのその男は遅れてやって来て、そんなケイコに面会する。
「よぉ。あした出産やてな」
 店の仕事を切り上げて挨拶(アイサツ)に来た。
「はい、そうなんです」
「そうか、そうか……」

 その男は、(かばん)の中からなにやら、巻かれたタオルを取り出した。

「残念やったな。そうは、させへんぞ……」
 そのタオルを解く。
「俺が代わりに、オマエのお腹かっさばいて、その子ぉ、引きずり出したるからっ! なっ!」
 蛍光灯の光をはね返して輝くそれを、ケイコに向かって構える。

 おなかに突き立てられる。

 ――包丁。

 殺されるっ!
 自分が、というのと、この子が、というのとが、同時。心のなかに巻き起こる。
 気が動転する。
 錯乱する。
 重い体で必死にナースコールをする。人を呼ぶ。
 タカシはやや(あわ)てながらもしかし、この展開は予想どおりだ。文化包丁をまた鞄の中にしまう。まるでなにごともなかったかのように、そして満足げに、駆けつけてくる看護婦と入れ替わりに立ち去った。
 これで生きて産まれては()ぉへんやろう――。
 所期(ショキ)の目的を達成した、そう思った。最初からそのつもりだった。

 もはや半狂乱といってもいいケイコ。
 駆けつけた看護婦、それに呼ばれた医師。まず鎮静させる。が、どうみても子どもを無事に産める様子ではない。分娩は無理だ、このままでは母子ともに命に関わる。その場で緊急に、手術を決断した。ふたりともが助かる唯一の選択肢。帝王切開で取り出す。

 タカユキも電話で呼び出された。
「奥様の容態が急変しました」
 命を落とすかもしれない危険な状態。
 タカユキはケイコの実家に、ついで自身の実家に連絡し、病院に駆けつけた。

「輸血の用意を」
 ケイコはA型。
「どなたか御親族にA型かO型のかたはいらっしゃいませんか?」
「私、O型です!」とマサコ。

 手術は夜を(テッ)して行われた。日曜の夜。執刀医(シットウイ)もこんなつもりはなかったろうが、このままでは今にも死にそうな母子を見れば、そんなことを思う気も()せる。

 おなかが切開される。
 難手術。
 命を失うかの瀬戸際。うすれて朦朧(モウロウ)としている意識のなかで、ケイコは懸命に頑張った。

 私は、死んでも、かまいません。
 それでもこの子を、
 たすけて、ください……。

 無影灯の下で――
「よしっ!」
 子どもがおなかから取り出された。産まれる準備も心づもりもなかった、その子が。医師という他人の手で。
 月曜未明のことだった。

 ありがとうございますっ! ありがとうございますっ!
 ケイコのその言葉は、声になっていたか。わからない。
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