第十六章 第一節 ミユキ

文字数 2,366文字

 産まれた子は、父親から一字を()って「ミユキ」と名づけられた。それは、タカシらが息子の子ではないと言い張り続けていることへの対抗でもあった。
 ミユキがタカユキの実の子かどうかはいずれ、顔を見れば判ることである。産まれたての乳児の段階ではまだしも、顔つきが次第にできてくれば実の父親に似てくるはずだ。
 出生届はタカユキが区役所に出しに行った。もちろん、「父」としてタカユキを記載している。

 病院で職員ら第三者が見ているなかでのタカシの蛮行。同じく病院にいたタカユキやヨシアキにも必然的に知れるところとなった。タカシやカズコがかりに

をきったとしても、見せつけられたマサコがたとい話題にしようとしなかったとしても、きっとそうなっただろう。
 手術直後のケイコにはすぐ話される機会がなく、ショックが大きいだろうということで伝えられるのが遅くなったが。
 そしてそれはケイコにとって、あの病室でのできごととともに、死ぬより苦しく絶望的な現実に思えた。自分だけならまだしも、わが子にまでも危害が加えられている。しかも、死にそうになりながら産んだ子に。哀しい。この現実をグッと(こら)(しの)ばねばならない。あのことは、誰にも(だま)っている――。

 森本家のヨシアキ夫妻と、中谷家のタカシ夫妻の関係は険悪になっている。もはや当然だ。

のあと病院に叱られつつあれやこれやと言いわけをしてタカシ夫妻がそそくさと病院を去ってから、両夫妻は顔を合わせていない。電話もしない。
 単純に考えて無理だろう。タカシからすればわざとやったことで、あんなに凶悪なことをしておきながらも、自分が正しいと確信している。謝罪するわけがない。そんな人間に、ヨシアキ夫妻の側から接触するわけがない。

 しかし、いくら険悪だからといっても、ここにはミユキがいる。娘が産んだ孫。
「どういうことなんや?」
 そう釈明を求められてタカユキは、ヨシアキ夫妻に事情をくどくどと説明せねばならなかった。彼らはこの子を孫だとは思っていないこと。
 二人とも物腰はあくまでも丁寧。女のマサコに至ってはタカユキに対しても敬体で話す。だが、心のうちでは底から煮えくり返っている。律儀で社会的な大人で、上品。しかしそれだけに、その顔の裏側では、情が熱い。
 なんでこんなところに嫁に出したんやろう。二人とも、なにより自分自身に腹だたしい。タカユキがどう話そうが、タカシ夫妻がどう思っていようが、うちの娘が不倫をするわけがない。一途な娘だ。結婚する前にほかの男とフタマタなぞというフシダラなこともありえない。そもそも結婚するまで

てはいけないと、そう云い聞かせて育てた。
 ミユキという名は、タカユキが自身の子だと責任を示して義父母を納得させるためのものだった。それ以外の親類の誰の字も採用していない。
「ええ名前やな」「せやね」ヨシアキ夫妻はそう口々に、静かに、言った。

 実の両親と、義父母。タカユキはこの両者のはざまにおかれている。もう決して接することがないかもしれない(へだ)たり、まさに、はざま。妻子がいる。しかし実の両親と絶縁をするわけでもなかった。まるで、双方に片足ずつ置いて地割(じわ)れの上に立っているような。そんな異様な態勢だ。
 ――それはミユキにとっても同じ。さらには、まだ乳飲(ちの)()のミユキには、なんの選択権もない。結局は周りの皆が勝手に「この子を不幸にしたくないから」と何が不幸なのかを決めつけて、この(チュウ)に浮いた状態を選んだ。離婚することもなければ、父が両親と絶縁することもない。そうしてミユキは事情を知るよしもないまま一方的に、このはざまの上の宙に浮かされた――。

 さて。子育てである。
 死の淵から生還した母子だったが、タカユキはあてにならない。そもそも日本社会がそんな世の中ではなかった。男というのはおよそ、そういうものである。この男も例外ではない。
「なんか手伝うことあるかー?」
 これである。
 しかし乳児の面倒というのはただごとではない。だから平日の日中はマサコが、なるだけ毎日、わが娘と一緒にミユキの面倒をみている。ケイコが母に頼ったのも当然だし、マサコにとってもなによりかわいい孫のことなのだから、もっともな展開である。
 飲ませるのはなるべくは母乳だ。体力的に厳しいところはあるものの、「母乳のほうがええ」とマサコが云った。ミユキは母の胸に懸命にしがみつく。片胸から飲んで、もう片方の胸も空いた手で抱える。それを二人は、これが赤ちゃんの生命力だとか思っていた。飲んでいる最中やのにもう片方も取られまいと独占しようとしているやなんて欲張りやなあ、と。
 母乳は母親にしかやれない。しかしそれ以外にも、おむつを替えたり、身体を拭いたり洗ったりと、やることは多いのである。しかも二四時間全日営業。夜中でも容赦なくしごとが課される。
 それに加えて家事もあるのだから独りではたまらない。母親自身の食事がある。それは産後からの回復にも必要なのはいうまでもなく、それ以上に子どもにも母乳を与えねばならないのだから。食料も育児用品も買いに行かねばならない。マサコがケイコを育てた昔は布おむつだったが、今回は紙おむつにしている。時代の移り変わりにマサコは感慨(カンガイ)(ぶか)いらしい。

 他方のタカシ夫妻は無視を決め込んでいるようだった。それはやはり、ここにはマサコがいるのだから当然なのだろう。
 しかしそれにしても、彼らがなにを考えているのか、判らない。このまま関わりがなくなってしまえばいいのに……。だが、祖父母がいるのに子どもが会わないまま、というわけにもいかないだろうとも思う。

 木の柵に囲われたベビーベッドに寝かせ、買っていたおもちゃを振り、天井から吊り下げたオルゴールを回したりして、あやす。そんな毎日になった。
 ミユキは憶えている。
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