第十六章 第二節「シャクブク」

文字数 2,673文字

 それは平日の昼間、マサコが買い物に出かけているとき。ケイコとミユキの二人だけでいるときのことだった。

 キンッ!

 ミユキをあやしていると、玄関のチャイムが鳴った。
 母ではない。帰りにはまだあまりにも早いから。訪問販売か何かやろうか。新聞の勧誘やろか。
 この頃はそんなもの、日常茶飯事だった。しかしいま手が放せないので迷惑である。ケイコは有閑マダムではない。とはいえ、そんな言葉はまだなかったが。

 招かれざる客。
 居留守をつかう手もあるが、とりあえず玄関ドアまで行く。大勢(おおゼイ)の気配がある。

 キンキンッ!

 スコープをのぞく。

 そこには、信じたくない姿があった。
 ――(しゅうと)である。
 あの、義父のタカシが、久々に出現している。

「ケイコぉ、俺や、お義父(とう)さんが来たぞぉ」

 反射的に、本能的に、危険をおぼえる。
 ドア一枚へだてた向こう側。
 あのとき、ケイコはその場にはいなかったが、病院でこの子の身がおびやかされ罵倒された、そのことを聞いている。なにせ、ほかならぬわが母がそれを見せつけられたのだから。母が目にしたそのできごと。もちろん作り話だとは思わないし、彼らのいままでの行動からしても、さもありなむとは思えた。本当はこんなこと、あってほしくはないのだけれど……。
 これは危ない!
 居留守をつかおうと思う。母か夫がいるときならばいいのだけれど、いまはいけない。

「なんやぁー。ケイコぉ。おるんやろぉ。俺や。お義父さんやぞぉ。出てこいやぁ」

 静かに、ミユキのいるベビーベッドのもとに戻る。なにはなくともこの子をまもらないといけない。
 なにごともないんや。気づかへんかったことにしとこう。べつに誰も来てへんねや……。

 ドンドンッ。扉がたたかれる。
 ガチャガチャ……ドアノブを回して、開かないか確かめられる。

 息をひそめ、物音をたてまいとする。とはいえ、幼いミユキがだまっているとは思えなかったけれど。

 ――そんな考えもムダだった。

「なんやぁ、つれないなぁ。それともホンマにおらんのんかいな」

 ガコガコ、ガチャ……。
 カギがひらいた。

 そう。タカシはそもそも、ウチの鍵を持っているのだ。

 扉が開く。
「やっぱりおるやないか」
 狭いアパートは、玄関から中が丸見えだ。

 タカシが土足で上がり込んで来る。
 タカシだけではない。見知らぬ人が何人も。彼らも土足だ。そのなかに知った顔が一人。義姉(ギシ)のユキエもいる。

「ケイコ、お前いいかげんに入会せぇや」
タカシは迫った。「もう素直ぉなって、その子ぉと一緒におとなしく入会せい。ほしたら特別に二人とも(ゆる)したるぞ」

 そう云われてもケイコは、赦されなければならないような(あやま)ちをしたわけではない。しかし舅たち中谷家の人々は、ケイコが罪を犯したものと思っている。押しかけてきた者どもも、「断罪」して屈服させるため、囲い込んで吊るしあげて脅すための要員に違いない。
 だから、そんな「エキストラ」たちに囲まれているからなおさらに、ケイコには(おび)えているしかない。
 それはまるで、ヤクザがチンピラどもを連れて不当要求を呑ませようとする現場。

 すると、
折伏(シャクブク)しょう」
 言う男があった。
「せや、折伏や」
「折伏しょう、折伏しょう」
 次々に口々に声があがる。

「折伏してエェか?」
 彼らはタカシに許可を求めたが、それもせいぜい、念のため、というような、形ばかりという(おもむき)である。
 ユキエも含め、者どもがみな、うなずくように同意している。

 ――せやな……タカシが云った。「やってください」
 それが口火(くちび)だった。

 そこからはもう、メチャクチャ……。

 ただ、
「ケガはさせんなよ!」
「高い物こわさんように気ィつけよ!」
借家(シャクヤ)やからな! ウチは壊さんようにな!」
 そんな事項を互いに確認しながら――。

 この信者どもが何をしたかといえば、部屋じゅうを散らかしてまわる。適当な物を手に取っては、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ。
 ある者は野球用のバットを持ち込んで振り回している。ちなみに当時のことだから木製だ。あるいはこれがもしも金属バットなんてことがあったとしたらなおさらに、それで人を殺せたかもしれなかったが。
 破壊行為。
 ユキエも嬉々(キキ)として参加している。
 杖を持っているタカシは現場監督だった。
 なんだか彼らは、日頃の()()らしという軽い感覚でやっているかのよう。
 わけがわからない。

 ガシャーン!
 パリーンッ!

 まだ若い。家にある物なんて限られてはいる。だからわざわざ台所の戸棚まで開けて食器をぶちまけて割っていく。
 貧乏だから高価な物は少ない。あるとしたら、結婚するときに用意したタンスとか呉服とか布団とか。そういう見るからに判るものには手をつけない。

 高額な器物損壊や、ましてや傷害になってしまうと、おおごとになる。そうするとさすがに、身内のイザコザというだけでは済まないかもしれない。
 反対に、身内のケンカというだけならば、警察も動かない。少なくとも当時ならば、動かなかった。警察は、親類の争いごとに首を突っ込まない。あるいは「民事不介入」という(おきて)もある。被害者が捜査機関に告訴でもしなければ動かないだろう。
 それに、例えばレイプや性被害にかぎらず、「身内の不祥事を(おおやけ)にしたくない」「警察沙汰(ザタ)にしたくない」というのは、いまの日本社会でもめずらしくないくらいだ。ましてや当時ならば普通のこと。告訴どころか被害届も出さない。いわば「一族の恥」だから。
 つまり、「一線」さえ越えなければ警察沙汰にならない。そういう計算ずくでしている殴り込みなのである。

 それに――警察の内部にも仲間がいる――。

 こんなことをやられたからなおさら、ケイコは黙って怯えている。ミユキの手前に立ちはだかったままでパニック。止まっている。
 ただ、ただ。
 この子だけは……ッ!
 それだけ。
 私のことはええけど、この子だけは!

 異様さを感じとって、ミユキも押し黙っている。言語がわからなくとも、大事件ともなれば直感的にわかるものだ。

 白昼堂々の組織的な犯行。
 とにかく大騒ぎ。まるでヤクザの殴り込みのようだった。

 そのとき、やみくもにバットを振り回す担当が勢い余った。
 ゴンッ! という音と、ミシッ! という音が同時。
 タンスに当たったのである。
「それはアカンぞ、やりすぎや」
 いかにも高級そうなソレを傷つけてしまって(しか)られた男は手を止め、きまりの悪そうな顔をしている。
 けれどそれも一瞬のこと。また暴れ始める。

 そんな時間が何分間つづいたか。
 恐怖と動悸(ドウキ)と呼吸で、ケイコには時間感覚がわからなかった。
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