第二章 第四節 独り暮らしに届く音

文字数 3,916文字

 帰りの路線バスまでの待ち時間、ミユキはレコード店に立ち寄ることにした。そのレコード店は駅前の商業ビルにあり、バスの乗り場にほど近いからちょうどよいのだ。
 ミユキが気になるのはやはりアニメやゲーム関連のCDなのだが、一般のレコード店なので入荷しているものは限られている。ないものを買いたければ、発売前なら予約、発売後のものならば注文しなければならない。また、発売後のものは生産数が少なければ入手不可能になっていることも多い。
 ただ、このレコード店は経営者の方針なのか、流通経路の「営業」による結果なのか、妙に偏った形ではあるがアニメやゲームのCDも一部、入荷する。ミユキがいわゆる声優関連のCDを初めて買ったのもこの店。そして、それを買いたいと関心をもったきっかけは、テレビのヒロインアニメだった。
 ちなみに同じように売っている別の店を具体的に挙げれば、アニメイトは大阪にも既にあった。が、東日本と西日本で経営母体が異なっていたような成長期で、同人誌を描いたりする層向け。ミユキはそちらの方面には(うと)いので近寄りがたく、まだ足を踏み入れることはなかった。このような専門店ではその後、再販価格維持制度を利用して(コウ)(あら)利益(リエキ)の音楽ソフトや映像ソフトを大量に在庫させ、売りさばくようになる。その時代の萌芽(ホウガ)だった。
 ミユキがCDを買うにも、父親から与えられる小遣いからである。まだ中学生だったからなのはもちろんのこと、高校生になっても学業最優先。自力で稼ぐ機会なぞない見込みだ。

 しかし、もとより高校生の段階で稼ぎに行くつもりはない。ミユキは、他人と距離をおいて生きてきた。そうしないと危険だったからだ。親からさえも理解されていなかった。
 父親はイヤだった。ミユキの幼い頃から、彼は突然激怒したりする。ささいなことから、それに見合わない怒りへと膨らむ。理不尽に。暴力を振るうことさえあった。いわゆる「瞬間湯沸(ゆわかし)器」とでもいうものだろうか。もっとも、この二一世紀もいまや実物の瞬間湯沸器はかなり珍しくなった。ミユキにも、大阪にいた頃ならば自宅にあったが。
 父親が激怒すると、ミユキは母親とともに怯えた。しかしその母親までも、ときにはヒステリックになり錯乱した。ただし母親からは自身の感情を抑えたいという思いがあるのが解るから、ミユキは母親に同情的だった。父親はそうではない。悪びれず、反省することがなく、同じことの繰り返し。
 ミユキはそんな、(のち)の時代にいうところのドメスティック・ヴァイオレンス、DV家庭に育ったのである。

 結局その日は予算的にみて買う予定がなく、少女アニメのサウンドトラックなど欲しいCDを見つくろっただけで終わった。店内を見回すと、対象年齢層が高めの男性向けの、SFのオリジナルビデオアニメーション略してOVAのポスターが貼ってあったが、ミユキには興味がもてない。この時代になって店内にある音楽ソフトの多くもCDになっているが、演歌にはカセットテープがあるらしくポスターが目についた。関心がない。バスまでの時間もあまりないので、退店する。

 ミユキが歩道橋を渡って始発停留所に着くと、先客は一人しかいなかった。ミユキもベンチのところで待ち始めると、ほどなくしてバスがやって来たので乗り込む。

 バスを降りてマンションに戻り着いた。郵便受けの確認も、自分しかする人がいない。本当は、ミユキは共用廊下もなるだけ歩きたくなかった。同じマンションの住人と出くわすのを怖れていたからだ。結局この日は出くわさずに済んだが。
 帰宅すると心理的にはようやく落ち着く。助かった、という気持ちだといっていい。作業的には、荷物を置いたり手を洗ったり、部屋着に着替えたりと、やることがあるが。
 ミユキの学校は制服ではない。母親がいた頃はコーディネートを勝手に決めてくれた。独り暮らしになると服装はおざなりだ。「着まわし」をする気もない。洗濯も毎日まではしなかったから、連日同じ、ということもある。。

 午後五時になる。ミユキの数少ない楽しみのひとつに、夕方のテレビアニメがある。東播では大阪と異なり、瀬戸内海放送もテレビせとうちも受信可能だ。もちろんVHFではなくUHFである。とりわけ、テレビ大阪ではなくテレビせとうちなのが大きい。テレビ大阪ではテレビ東京系アニメのネット放送が少なかったからだ。午後五時台、六時台は、アニメの放送時間帯である。
 リビングのテレビをつけた。それは独占するには大きく、贅沢(ゼイタク)だったが同時に、独り暮らしの(むな)しさも覚える。自室にもテレビはあるが、独り暮らしになってからは必然性がない。
 そして、合間の時間を利用して少しずつ夕食をつくる。その夜はレトルトものでカレーライスにした。四人用のダイニングテーブルセットにも一人だ。隣にも向かいにも親は座っていない。

 食後、少しの時間だけ教科書を開いてみたが、頭に入ってこない。
 とうに高校の教科書である。学校では一学年先の内容を進めてしまい、高校二年生の段階で全て終えてしまう。ミユキの学校が中高一貫校になったのは進学校になるためではなかった。いわゆる旧制中学校が新制にならねばならなくなるにあたって、高等学校を新設したからだ。だから、中学と高校の境界はまるでないようなものである。
 ミユキは、入学早々に順を追わずに飛び飛びで進んでいく学校のカリキュラムに、付いていけなくなった。学年や季節も無視して、常にとんでもないところをやっている。ミユキは小学生以前から、最初から順番に大切に積み重ねていく性格と手法だった。だから、この授業のやり方は合わなかった。

 七時台になって電話がかかってきた。テレビを消す。受話器を取ってみるとやはり、母からだ。毎晩のように電話をかけてくる。
 話す内容はほとんど、「元気ですか?」みたいな程度でしかない。しかし、ほぼ必ず電話をかけてくる。それは、ただミユキのことが心配だからというだけではなかった。むしろ、まだ若い我が子の面倒をみられない自分に引け目を感じているからなのだろう。ミユキの母親は、いわゆる自己肯定感の低い、自罰的な人だった。ミユキも元気ではないがそれ以上に、「元気ですか?」と尋ねる母親のほうが元気ではなく、いつも声に力がない。
 ミユキにとって母親は、むしろミユキのほうが気を遣って面倒をみる存在になっていた。しかも十代(なか)ばにもなって母親の面倒を見るのは(わずら)わしくもあった。しかし、母の性格や心境が解るだけに断るわけにもいかない。
 悩みの相談なんかしても助けてもらえるわけではない。反対に、心配をかけて母を追い込んでしまうのが目に見えている。だから電話で話す内容にしても、まるで「生存確認」程度のやりとりしかしない。

 ミユキには、電話というものが苦痛だ。恐怖だというべきなのだろう。
 電話はリアルタイムである。CDのような録音物ではないから、相手が突然何を話してくるか判らない。電話では、相手の表情なども見えないから予期しづらい。
 電話は、一対一である。テレビとは異なり、ミユキに対して直接話しかけてくるのである。にもかかわらず、対面と異なり距離感がない。
 「話しかけてこないでほしい」「会話がイ・ヤ・だ!」といういつも出している雰囲気を(かも)し出すことも、電話では不可能だ。
 ミユキには電話が怖くて物凄く苦痛なのにもかかわらず、相手はそんなこと知ったことではなく一方的にかけてくる。電話はそういう「人の内面に土足(ドソク)で上がり込んでくる」ような存在なのである。

 電話のあとリビングの二人がけ用のソファでくつろぎ、そこに横になった。大きな応接セットも、独り暮らしでは()まることはなく空しい。
 急に、今朝の電車内のことも思い出された。とめどもなく溢れかえってくる。(ひじ)置きと座面との間に顔を(うず)め、クッションを濡らした――。

 どのくらい経っただろうか。起き上がる。入浴をせねばならない。
 もちろん、湯を張るのにしても、掃除にしても、ミユキ独りでせねばならない。ミユキ一人のために。
 浴室も浴槽も、独り暮らしには広かった。しかも新築してまだ年数が経っていない。贅沢だが、贅沢すぎて虚しい。
 自分一人のためだけに、給湯器が湯を沸かし、どどどぅと浴槽で音を立てている。

 入浴を済ませたら、またリビングに戻って今度はラジオをつけた。ここに引越してきて翌日くらいに、駅前の商店街にある電機店の星電社、愛称「せいでん」に行ったとき、両親が買ったCDラジカセである。
 室内の蛍光灯を切って、聴く。暗いリビングの広い空間に、しっとりと澄み渡って、ラジオの声が、音が、音楽が、拡がっていった。
 ラジオは、自ら電源を入れてチューニングを合わせる。そしてテレビと同じように不特定多数に話す放送だ。それなのにまるで、直接話しかけてられているような不思議な感覚がある。録音番組でさえも。
 ミユキは独り暮らしになってからなおさらに、こうしてラジオをかけるようになった。カセットテープに録音して繰り返し聴くことも多い。
 そしていま部屋に拡がったそれは、学生を主なリスナーにしている、いわゆる女性声優のラジオ番組だった。時節柄、この春の卒業や新入学、進学をするという話題が多い――。

 ミユキにそのとき突然、まるで初めて気がついたかのように、「私は高校生になるんだ」という実感が吹き出した。
 そんなこと、とっくに判っていたはずなのに……。

 暗い室内を、ラジカセのわずかな光。そして、温かな女性の声が満たしている。特殊な人生を独りで生きてきたミユキに、言葉では表せないさまざまな思いが溢れかえっていた。

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