第三章 第一節 日本的な父親

文字数 3,338文字

 父はなんでも勝手に決めてしまう。
 ミユキの父親は、家庭内の独裁者である。彼の暗黙の圧力に対して妻子は、つまり、ミユキも、その母も、従わざるをえない。いわゆる亭主関白というものなのかもしれない。より的確にいえば、権威主義的な、封建(ホウケン)的な家だった。もっとも当時のミユキは、歴史学上でも頻繁(ヒンパン)に出てくる「封建」という語も、その意義を厳密には理解していなかったのではあったが……。
 勤務先は旧財閥系。会社に()びへつらって生活費を稼いでくる。それで鬱屈した感情を、養っている妻子にぶつける。実に日本人らしい、差別主義者だ。妻子を呼び捨てにしたり「おまえ」と呼んだりするし、対外的には妻のことを「家内(カナイ)」という。妻は夫を「あなた」と呼ぶし、対外的には「主人」という。明確に上下関係がある、悪しき意味で日本家庭の典型だ。
 家庭では「アホ!」と妻子を日常的に(さげす)み怒鳴り、ときには暴力すら振るう。酒に酔ってもいない、

で、である。そんな日々が続くから、妻子も萎縮(イシュク)して隷従(レイジュウ)するのが普通になる。逆らうことはもちろんのこと、意見を言うことすら不可能だ。
 そんな夫とは離婚したほうがいい。だが、道徳的な妻には離婚の選択肢はなかった。子どももいるから母子家庭になるのはためらわれる。妻の実親も封建的であったから、その両親のことや世間体(セケンテイ)を考えるし、そもそも当人自身が極めて自制的だ。夫に尽くし続けた。
 ミユキは、父を「お父さん」と呼んでいた。「パパ」なんていう温かみのある人間ではない。もちろん「オヤジ」とか、ましてや「クソオヤジ」とか呼べない。賢いミユキは、対外的には「父」と呼んでいたことも、いうまでもない。母に対しては……離婚してほしい、というのが本音だった。しかし決して言えない。母に対しても。苦しみ悲しませるのが目に見えている。離婚の選択肢は、ないのだ。

 東播にマンションを買って引越すことも、父親のワンマン的な決定だった。彼には二人とも決して逆らえない。勝手に決められてしまう。

 そうして――欠陥住宅をつかまされたのである。

 *

 ミユキが中学一年生の夏頃だったか、父親が引越そうと言い始めた。

 最初に購入の候補にあがったのは、大阪南港(ナンコウ)の団地。埋立(うめたて)地の海辺に建つそのマンションは簡素なデザインで、港湾らしい殺風景(サップウケイ)な立地だった。ミユキにはその無機質な雰囲気が安心するから、どうしても引越すというのならばそこがよいと思っていた。住むならば人間くさくない小ざっぱりした街がいい。美しくもない大阪湾だが、海が見えることに興味が沸いた。ところが父親は、通勤途中の混雑や乗換の煩雑(ハンザツ)さが気に入らなかったらしい。

 次に候補にあがったのがそこ。東播の農業地帯が宅地開発され始めたところに、大手不動産デベロッパーが計画したマンションだった。
 大阪からみればとんでもなく遠い。神戸市よりも向こう、明石駅よりも先。そして言葉どおりの田舎。農地だからもちろん海からはあまり近くない。そこは、用水のための小川が引いてある、化成肥料や農薬のありふれた人工的な土地だ。こういうのも宣伝文句にするならば「緑あふれる田園地帯」とでもいうのだろう。
 売主であるデベロッパーは美辞麗句を並べたてて宣伝し、いかにも綺麗な資料を制作して配付した。インターネットも普及していない時代だ。実に妄想を駆り立てられる、小市民の上昇志向がくすぐられるものである。
 そしてミユキの父親は、家柄は卑しく、守銭奴(シュセンド)。ケチである。お金を出す人は偉い。まして、八桁もするような大金を出すのだから、(あが)められて当然だと思っている。封建的で拝金的な父親は、その慇懃(インギン)な不動産デベロッパーの接客が気に入ったらしかった。
 きっと、南港の物件のほうは庶民的で、市民的な接遇が気に召さなかったのだろう。公共的でフラットな関係のほうがむしろ健全なのに、それが彼には解らない。
 販売現場はまるでキラキラしている。現地には先行して内装まで完成したモデルルームもある。上階など人気の部屋は購入希望者が複数いて

になり、活気を演出した。いかにも華やかだった。
 ことは、既成事実的に進んでいった。
 システムキッチン、システムバス。照明器具やカーテンに至るまで、オプションやオーダーメイドの数々。デベロッパーは買主に最後まで絞り出すようにお金をかけさせて、夢を見させてくれた。

 ミユキの父親は権威主義的だが、普段は平静を保って徳政を()く名君のつもりでいる。彼は能力不足であるにもかかわらず、偉ぶって独裁する。能力不足で思い通りにならない。すると途端に激怒する。
 「頼りない父親」というのが、彼に対するミユキの評だ。弱々しいのではない。偉そうなのに愚鈍だからである。底が知れる。母や自分のほうがシッカリしている……。実際に例えば、大阪から東播の新居に引越すときにも、新住所を住居表示ではなく登記面の地番のほうで業者に伝えてしまった。先行してたどり着いた現場はパニックである。その地名は地図にない。ミユキは、父親のことが恥ずかしい。自身や母がなによりの被害者だが、家の中だけではなく外にまで迷惑を振りまいているのだから。
 偉そうなのに愚か。いや、愚かだからこそ偉ぶるのだ。


 ――これは、とんでもないところに引越してきた。ミユキは思った。

 引越してきたのはもうすぐ中学二年生になろうとする頃。暮らしてきた大阪の3LDKに別れを告げた。そこは売りに出して、じきに他人の物になる。
 新居に着いて早々、テレビのチャンネルがUHFで、しかも大きい番号なのには驚いた。電化製品、こういう機械の操作は家族の中ではミユキが得意だ。購入してきた製品の取扱説明書もミユキはすぐに読んでしまう。小説であれ、小学校の教科書であれ、手に入ったらすぐに読んでしまう。それがミユキなのである。だから、テレビの初期設定だってミユキの担当なのだ。マンションは共聴アンテナが立てられていて、しかもBSアンテナまであった。しかし肝心の地上波は、電波の入りがよくないのか、垂直同期すらも絶妙な調整が()ったうえに、映像にどうしてもザラつきが入ってしまう。
 あと、下水道はなく浄化槽らしい。そういうマンションもあるのか。田舎に、まるで取って付けたように植えられたマンションである。
 大阪の都会に住んでいたミユキは、覚悟はしていたものの、思っていた以上だった。まだまだ知らないことだらけである。

 しかも、新居に幻滅するのも時間の問題だった。引渡しのときは気がつかなくとも住んでみると、欠陥が次第に目につくようになったのである。ドアの建付(たてつ)けがおかしい。微妙に傾いている。フローリング板が浮いている。
 そして、元々は農地だったからか、湿気が上がってくる。よりにもよって、父親が買ったのは一階だったからだ。梅雨になるともう、大変である。カビには非常に悩まされるようになった。
 だまされた! そう気付いても、もう遅い。多額の住宅ローンで借金してまで、既に購入して入居してしまっている。不動産デベロッパーというのは、そういう商売なのだ。とりわけその業者は。
 デベロッパーというのは必ずしも建設や住宅を誠実にやっているとはかぎらない。むしろビジネス的には、大金をつぎ込んで土地を買い上げ開発し、それを売り払うことで利ざやを稼ぐ、転売屋のようなところがある。いわば不動産(ころ)がしみたいなところが。建築に真剣に精通しているともかぎらない。下請(したう)け任せ、しかもなるべく廉価(レンカ)に済ませようとする業者や物件がある。
 売ってしまって、借金させて代金を獲ってしまえば勝ちなのである。買主は、第三者の金融機関に対して払い続けなければならないし、その金融機関だって物件を担保にとっている。裏ではデベロッパーと金融機関が結託していても、金融機関は知らぬ存ぜぬだろう。しかも多くの場合は、買主にとってその物件は自宅だ。縛り付けられ、たやすくは離れられない。
 そんな病んだ社会が、日本というものなのである。
 ミユキの父親は、尊大で愚鈍だ。金銭や権威でしか人を(はか)れないほど人間不信のくせに、だからこそいともたやすく│()められた。他人をアホ呼ばわりする当人こそが、まさにアホなのだ。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み