第十三章 第四節 中谷ケイコ

文字数 2,501文字

 (とつ)ぐ日。

 婚姻届は先に出してあった。お互いの両親の賛同もあれば、結婚披露宴(ヒロウエン)にも出席する仲人(なこうど)もいて、なんの障害も変哲(ヘンテツ)もない。映画で見るような駆け落ちとか略奪婚とか、そんなドラマティックな展開なんてない。いや、結婚披露宴まで終わってみないと映画みたいなことが起こらないかわからないけれど。きっと、ないのだろう。
 それで二人の新居も事前に用意してあって、実はもう引越したことになっている。新郎タカユキの実家にほど近い木造アパートだ。もちろん、タカユキの名義で、貯金と給料で、借りたものだ。そういうことは計画的で、ストイックなまでにキッチリしている、それが彼のよいところ。
 抜かりはない。

 結婚というのは(あこが)れで、幸せになるものであるはずで。せやけど――なんだか、ものがなしい。これで、おわり。人生のゴール。
 フクザツな心境。
「いつでも来てええんやで」
 前夜も両親に云われた。たしかに、結婚したところで、一生の別れになるわけやない。それどころか、新居だって近くにある。
 けど。もう森本やあらへん。中谷家に嫁いで。中谷家の子を産むことを望まれている。

 結婚式は「神式(シンシキ)」。三三九度。意味はわからないが、しきたりは決まっている。それを(とどこお)りなく終えて。披露宴も、文金高島田(ブンキンたかしまだ)に「お色直し」に、ウエディングケーキ入刀(ニュウトウ)にキャンドルサービスにと、お決まりの内容だ。その意味はよくわからなくても。純白のウエディングドレスも自ら選んだものだし、記念写真ももちろん撮ってある。新婦(シンプ)の友人らが駆けつけて歌で祝うなんていうところまで、ありきたりで。多くの人がしているのと同じ体験、それが憧れで。一生に一度だとなるとなおさら、同じことがやれることこそが幸せだ。ケイコもそう思った。
 しいていえば、新郎の親戚(シンセキ)からは結婚披露宴に出席する人が少なかった。新郎タカユキの出身地は松山。親戚がみんな愛媛だかららしい。来た人が、たったの三人しかいない。出席者の多くは、勤務先の会社の上司や同僚だとか、学校の元同級生だとかだった。
 そういう森本家のほうも、祖父母のうち三人はすでに他界しているし、父ヨシアキは大阪出身ではない。戦争もあったわけだ、互いにさまざまな事情がある。
 そんな披露宴もなにごともなく終わり。感動にひたるというよりも、目まぐるしく振り回されて精一杯なうちに終わっていた、というところで。むしろ新婦の父のほうが、男泣きとまではいかなかったものの、感慨にひたっていたくらいだ。

 新婚旅行に出発。行先は青森県と北海道。現地までは飛行機。なにせこの頃はまだ、東北新幹線がない。盛岡まで開業したのでさえ昭和五七年なのだから。とはいえ、いまでも大阪から八戸(はちのへ)あたりへ新幹線で移動するとなると長時間かかるが。それにしても、飛行機と聞いて国鉄マンのヨシアキは、さみしそうな顔をしていた。
 まずは青森県。一泊二日で滞在したのは、弘前でも青森市でも、八戸でもない。十和田(とわだ)湖・奥入瀬(おいらせ)。十和田湖畔(コハン)、そこが

になった。
 はじめて。ケイコはようやく、結婚したのだという実感がわいてきた。このひとのオンナになったこと。(ささ)げる。最初で最後のオトコ――。

のあと、ケイコは泣いた。背徳感、屈辱感、喪失感。とにかくいろいろ。なんとも表しようのない感情だった。
 青森みやげに買ったのは、ずぐり。木製のコマだ。それらは色とりどりに塗られていて、さまざまな種類のコマがある。本当のところをいうと、ずぐりは津軽の名産品。十和田は南部(ナンブ)地方、上北(かみきた)である。それは、おみやげを肝心の十和田で買いそびれたからだし、何が十和田みやげになるのかも、恥ずかしながら青森県のことも、よく理解していないからだった。知らなかったのはなにもおかしくないのだが、タカユキは知ったかぶりや思い込みをするところがある。それに、ものごとを力強く決めてしまう。ケイコもタカユキも、どちらも封建的な気質があって。だからいつも、ケイコのほうが呑まれてしまう。
 飛行機で札幌の丘珠(おかだま)空港に移動して、そこでタカユキは自動車を借りた。北海道は、四国と九州を足したのよりもはるかに広い。道内は自動車移動という計画である。要は、新婚カップルが移動中にどのような時間を過ごすのかという問題で、ドライブでタカユキが自ら運転してイイところを見せつけようという魂胆(コンタン)
 札幌オリンピックがあったからなおさら、北海道の観光人気は高かった。ちょうど、札幌の石屋(いしや)製菓が「白い恋人」を発売して間もない頃だ。しかしとにかく北海道は広い。道内では約一週間の旅程だが、全ての観光地を周ることなんて、もちろん無理だ。北海道のこともやっぱり二人とも詳しくない。札幌だけとか地域を(しぼ)ってもよかったものを、全道各地の有名な観光名所をめぐる計画で。そんなわけで、札幌はもちろんのこと、映画スターの石原裕次郎ファンのタカユキには外せない小樽。道南の函館。そして道東、霧で有名な摩周(マシュウ)湖と、当時は大人気で観光名所の定番だった阿寒(アカン)湖アイヌコタン。移動距離がとにかくとにかく、異様に長かった。周ることに精一杯。肝心の目的地に滞在する時間には余裕がなかった。
 タカユキは、映画の影響もあるのか、カメラも趣味だ。観光名所には記念撮影サービスをしている業者がいることもあるがそれ以上に、タカユキ自身が撮影したがる。業者に頼んだり、三脚とセルフタイマーにしたりして、二人一緒に写ったものもある。けれども、妻ケイコだけが写ることも多かった。十和田湖、丘珠空港ターミナル展望デッキ、札幌市時計台、函館山展望台からの夜景、霧でよく判らない摩周湖、アイヌコタンの木彫りの門――。
 新婚旅行だからそれも当然だろうが、毎晩、二人一緒に寝る。結局は、観光が目的だというよりも、二人で過ごすことのほうが目的。新婚旅行というのは、そんなものなのかもしれない。移動時間。二人っきりでのドライブもたぶん、そういうことだったのだろう。
 大阪国際空港には、千歳空港から帰った。まだ

千歳ではない。もうヘトヘト。やっと帰れる、ケイコは思った。もちろん、千歳空港の展望デッキでの写真も残っている。
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