第一章 臆病者と死について

文字数 2,793文字

 二〇一一年の震災から少し経った頃。だからそれは初夏だったかもしれない。その時のミユキは未明からランニングに出かけるのを日課にしていた。自宅を出ると、往復コースのこともあったし、ぐるっと周回するコースにすることもあった。その日に走りたいところを思いついたまま走る。
 その日も暗いうちから走りに出発した。何キロメートルもぐるっと走り回っていると、朝が始まる。後半の帰路に自宅の近所でもないわりと大きな公園に寄った。この公園は里山の谷戸(やと)を保存すべく設定された公園だ。

 この辺りは丘陵地帯で起伏が激しい。戦後の成長期に宅地開発が始まるまでは田舎だった。平地には農村の集落がつくられ、里山が入会地になり谷あいが水源になり農地になった。そこから用水路が低地を縫うように引かれて農地開発が進んだのが昭和戦前までのことだ。
 それが戦後に市の政策とデベロッパーによって大規模都市開発が始まった。都市計画や住居表示が導入され町域が作られ原形から大きく姿を変えた。とはいえ、昔からの住人ら地権者の意向や、緑豊かな住環境を保ちたいデベロッパーの思惑、そして新住民らの求める自然環境保護の市民運動がぶつかりあった。そうして、昔からの集落では町名が維持されたり、集合住宅と農地の共存を目指した農住団地をつくった地域があったり、市の管理のもとに保存される里山もあったり、市街地型ではなく昔の入会地を活かした公園が保存されたりもした。この地ではただ単にブルドーザー型に里山をぶっ壊して切り開くような開発にはならなかったのである。

 さて、公園に向かうと騒がしい鳴き声が聞こえてきた。猫と烏がバトルしている。外猫か地域猫か野良猫かはわからない。烏もハシブトかハシボソかは知らないが。いずれにせよ、都市化した地域の人間に依存している者同士の闘争。公園の入口にほど近いところで対峙している。さながら龍虎の睨みあいだ。ミユキは、関わり合いたくないと思って遠巻きにやり過ごし公園に入った。

 公園内のアスファルト舗装された小路を休憩がてら散策する。緩やかに曲がりくねった小路の脇には木々が間欠的に植えられている。だらだら歩いていると唐突に、通常ならありえない視覚に出くわした。

 木の梢から、人がぶら下がっている。

 中高年だろうかと思しき男で、顔は鬱血(ウッケツ)して既に赤黒くなっている。
 縊首(イシュ)だ。もう死んでいる、とミユキには判った。ミユキは大学院にいた頃には法医学の授業をとっていたし、それに加えて以前の仕事柄で人の死に様の情報には異様に多く触れてきた。見る人が見ればすぐ判る。
 彼の足下には、この地域では中心的なスーパーマーケットの透明なレジ袋に入れられた、白い風呂イスが転がっている。それと、いわゆるカップ酒が呑み残しで置かれていた。あまりにも生々しい。夜中、ロープと足場にするイスをスーパーバッグで提げてきて、電灯から離れた薄暗いところにある木を選び、ロープと足場を準備した。死ぬための勢いをつけるため「最後の一杯」をひっかけ、足場に乗り首を引っ掛け、足場を蹴飛ばした。
 自死だな、他殺ではないだろう、そうミユキは考えた。偽装にしては、現場が俗っぽくてキレイではない。

 平静だが平気ではない。感情が膨らみすぎて回路を突き抜けたようだ。麻痺している。救急か警察に通報しなくてはいけないとミユキは考えた。けれど、電話で通話しうるほどの耐久性がミユキの精神にはなかった。通報相手の隊員などを相手にするとか、ましてや遺体の付き添いを求められたりなんてしたら無理だ。通報すべきなのだが無理だという葛藤を逍遥し、とりあえず一息ついてから、解決しない様子なら肚を決めようと思った。

は、死んでいる。通報するのに急ぐ意味はない。もう死んでいるのだ。間違いないだろう、厳密に確認したわけではないけれども。

 もともと里山の林だった公園の奥、階段を登って公園の裏手へ出る。道路を渡ってコンビニに入る。何ごともなかったかのように気を落ち着かせようとしながら飲み物を買う。紙パック入りのお茶、つまりチルドの茶飲料だ。店を出て、それを飲み干した。胃の中が満たされて少しホッとした。
 来た途を返して現場を再確認しに戻る。同じままだ。再び葛藤する。葛藤しながら、現場を離れて散策し時間を潰しながら悩んでいた。
 しばらく経って、気がつくと体操服姿の学生が現場を発見し携帯電話で通報していた。公園の隣には学校がある。部活動で早朝に登校してきたのかもしれない。ミユキは一安心した。その学生には申し訳ないが。

 しばらくしてサイレンを鳴らしながら救急車がやってきた。隊員達が彼をみていたが慌ただしさはない。既に手後れだからだろう。
 死ねたこと、それが彼にとって幸いだったのかどうか、なんとも言い難い問題だ。少なくともミユキにはわからない。そんな知ったかぶりの人間ではないし、人生の苦労に揉まれつづけているから道徳的な理想論なんて通用しないことは解っている。そんなもの死んでも振りかざせない。
 救急隊は随分ゆったりと時間をかけているように見えた。やがて遺体はストレッチャーに載せられて救急車で搬送されていったが、再びサイレンを鳴らすことはなかった。既に亡くなっているので急ぐ意味がない。そこまで遠巻きに見届けたミユキは、そっと現場を離れ、例の階段で裏口から出た。

 はたして、死にたくて死んだとか、本当は生きたかったのではないかとか、そういう問題なのだろうか。『死を選んだ』のではない。死んでしまう状況に追い込まれたから死んだ。選択する自由意思なぞないのだ。それが現実。

 色々ありすぎて、こんがらがり、ほどけなくなって、自分でも手に負えない。何が何だかわからない。何もかも放り投げて終わりにしてしまいたい。ミユキにもそういう思いはいつもある。けれど、あまりにも何もかもありすぎてもはや、動けなくなってしまった。アルコール依存からの回復者のミユキには、酒は呑めない。死んだ彼のような死ぬ勇気を奮い立たせる一歩のための酒も、ミユキには呑めない。「どうせ死ぬのなら呑めばいいのだ」と皆は思うだろう。けれど、一生呑まないと心に決めたミユキには、呑むことは自らの尊厳を否定する堕落だ。それは、尊厳のために自死するという選択とは矛盾する。ありえない選択肢なのだ。
 死ぬのにも勇気がいる。その勇気がないからこそいままで生きてきたのだ。「私は臆病者だ」とミユキは思いながら、帰り道に急坂を駈け登る。呼吸と鼓動に自身の生を再確認した。里山の手前は旧い集落。この坂を登り山を越えて陸橋を渡ると大規模開発された住宅街が広がる。朝は深まり街はすっかり明るい。一人の自死をよそに、ベッドタウンはいつものように何ごともなく通勤通学で慌ただしくなるのだろう。喧騒が始まる前に家に帰り着きたい、ミユキは走った。
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