第十五章 第四節 術後の経過

文字数 2,466文字

 かくしてその人は、「かわいいおんなのこですよ」とか「元気なおとこのこですよ」とか産まれたそばからジェンダー観をおしつけられるお決まりの通過儀礼すらなくして、母胎(ボタイ)から取り出された。
 母子ともに手術中で、母は切開部(セッカイブ)縫合(ホウゴウ)はもちろんのこと、容態自体が死にそうである。子も母胎から無理やり取り出されて、こちらも容態がかんばしくなく、処置も必須だ。産まれてすぐ母に抱かれるなどというありふれた光景は、ここには存在しえない。
 子が産まれたのは夜中の四時くらいだが、それは分娩による出産ではなく、他人である医師が人為的に取り出した時刻である。

 さて、ヨシアキと、すでに血液提供を終えて戻ってきているマサコは、孫のことも気がかりだったとはいえそれ以上に、いま死の(ふち)にある娘のことで頭がいっぱいだ。産まれたとは聞いたが、娘の容態のほうが心配で、出てくるのを待っている。孫が産まれた喜びについては、あとにとっておくことだ。
 タカユキも、複雑で中途半端な(おも)もちで居る。それでも、産まれる我が子を記念撮影しようとばかりに、手術が続いている最中に車に置いてあったカメラを取りに行ったりしていた。彼の情緒は、よくわからない。
 タカシとカズコは「孫」が産まれると電話で聞いてはいたはずだが、ほかの面々からわざとおくれて、しれっと、ぬらりと、現れていた。

 先に出てきたのは子どものほうで、保育器に入れられた。
 保育器――英語でいえばインキュベーター(incubator)。それは、一般的には早産のいわゆる未熟児を保護するために用いられる。酸素や栄養の補給のほか、産まれた乳児の容態を管理するのが目的だ。いわゆる団塊ジュニアが産まれた第二次ベビーブームを経てのことである、産科現場の設備は充実していた。やや余っているくらい。
 今回は未熟児ではなくむしろ(おそ)かった。しかし、子を迎えるはずの母親がまだ手術中で、死ぬか生きるかの状況だ。そしてなにより子のほうも、帝王切開後で容態が万全ではない。母親とともに死の淵をさまよっていたのだから。
 さっきまで母胎にいたのに――。なにがなんだか判らないままのその子は声をあげて泣きもせず、(おび)えて萎縮(イシュク)していた。こうして危険な世界に引きずり出されたのだから。
 そこはガラスの向こう側。親類の誰ひとりとしてあの子に手を触れられない。たとえていうならば、集中治療中と同じようなものである。
 これを見たところでヨシアキもマサコも、「孫が産まれた!」と言って手放しでは笑えなかった。それに、このあと出てくるであろう、死ぬか生きるかの娘のことが頭にある。簡単にいえば危篤(キトク)同然なのだから。
 そんななかタカユキは、保育器にいる子を撮影していた。ガラス越しだ。彼が記念写真を撮るのははたして、その子のためなのだか、自己満足なのか。

 そのあとしばらくして。
 娘ケイコが出てきたと聞いてヨシアキは、孫の様子をみることに関してはまだ体調が万全ではないであろうマサコに任せ、ケイコのもとへと駆けていった。
 妻が出てきたと知ったタカユキもである。妻を心配するのはなんら不思議でもない。しかし彼の場合は義父母に対する体面(タイメン)を考えてのことなのかもしれなかった。
 タカシとカズコは、そんなことどうでもいいとばかりにその場に残っている。なにくわぬ顔をしているが、内心では「しくじった!」と悔しがっている。

 だからこの母胎から取り出された子は、「産まれた」はずながら、親類の誰ひとりからも全力の笑顔で迎えられたわけではない。人は産まれたからといっても、その誰もが身内から歓迎されるわけではない……。

 場に残ったのは、森本マサコ、中谷タカシとカズコ、この三人。

 ――それは突然のことだった。

 タカシが行動をはじめる。

 おもむろにズカズカと入っていく。そこは立入禁止と掲示されてはあっても、施錠(セジョウ)されていることはなかった。
 この男が何をしたいのか、判らない。おそらく多くの人ならば、感きわまった祖父が孫を間近に見に行きたくて侵入したのだと、そう思ったことだろう。ならば大した問題ではあるまい、と。

 病院には、この男を静止するような人員の余裕がなかった。月曜未明。もともといつも人が少ない。
 しかも、死にかねない状況だった母親がいま手術室から出てきたという。少ない職員らもそちらのほうで(あわ)ただしい。
 なにせ、そのための保育器なのだ。職員が一瞬くらいは目を離していられるように、器械に監視させているわけなのだから。

 片足を引きずりながらも堂々と保育器のもとにたどりついたタカシ。誰にも止められなかった。
 悠々とこのフタを開ける。保育器が動作中のことなんかおかまいなしといわんばかりに、乱暴に。

 その乱暴な右手のまま、中にいる子の足をつかむ。

 産まれたばかりの子どもは軽い。三キログラムそこそこだ。

 つかんだ足から引っ張り上げる。

 その子は片脚一本で上下逆さまに吊るされた。もう片方の脚は力なく浮いている。それはまるで韋駄天(イダテン)アキレウスの産まれたてのときのことのようでいて、しかし彼ならば両足をつかまれていたはずだから、それを超える態勢だった。
 だが泣きも騒ぎもせず(だま)っている。
 それも当然のこと。このまるでいまにも殺されかねない急迫した状況では誰にも止められないことが、本能的に直感的に判っている。騒げばかえって危険。そもそもさっきまで母胎で黙っていた延長にある人間にはまだ、声をあげて助けを呼ぶという発想がない。
 押し黙っていた。

 気づいた職員が一人、いまさら動き出した。

 男はこの子をさらに吊り上げて、その耳元に顔を近づける。

 そして――

「あー! あー! 聞こえるかー?」

 数十メートルも遠くの人に聞こえるのではないかという大声だった。
 あっけにとられている周りの人々に見せつけるように。
 なにより、マサコに見せつけるように。

 これ見よがしに……。

 職員があわてて駆け寄ってくる。

 その子の反応がないことを確かめたタカシは、大きな声で高らかに、周囲に向かってこう宣言した。

「コイツ、

やあぁー!!」
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