第十八章 第一節 幼稚でない人の、幼稚園

文字数 3,737文字

 さて、ミユキが五歳になって、就学(シュウガク)まで一年と少しになったころ。
 わが子を小中学校に通わせるのは義務である。タカユキとケイコも例外ではない。次の次の春には、ミユキを小中学校に入れないといけない。

「このままやと無理なんちゃうか」
 タカユキが言う。
「コイツは社会性がないからな」

 ミユキは同年代のよその子とは交友がなかった。よその子には自制心がないからである。ケイコの兄の娘、つまり従妹(いとこ)である、その二人とくらいでしかなかった。その従妹二人は「ミユにいちゃん、ミユにいちゃん」と(した)うばかりで、普段は奔放(ホンポウ)で暴れまわっている(うえ)の従妹ですらもミユキに対しては畏敬(イケイ)のような念が()きたつのか、おとなしくなる。
「ミユキくんはお利口(リコウ)さんやからな」
「おとなしくて、よう云うこと聞くもんなぁ」
 ケイコがたの森本家で共通の評である。
「爪の(あか)でも(セン)じて飲ませたいくらいや」
 そんなことをくりかえし言って従妹たちを批判するものだから、そう言われている従妹たちがミユキに一目(イチモク)どころではなく置くのである。
 いや、そもそもミユキには、判る人には判るオーラというか、近寄りがたき雰囲気がとりまいているのであるが――だが、それを本能的に感じとれたとしても、気味が悪いとか、ハラがたつとか、そう思う者のほうが多い――。
 この孫は普通の人間とちゃう。ヨシアキもマサコも気づいていた。本当は、うすうすは、怖い。異常だ。なにせ、読書家で、買い与えられた公文式(クモンシキ)の教材も、『漢字の本』も、次々にこなしてしまう。基本的な四則演算も習得し、小数とかいっている。読める漢字はいよいよ小学校六年生のところまで来ている。それでも年齢だけは幼稚園の年中(ネンチュウ)に相当するのである。
「まるで(とんび)(たか)を産んだみたいやな」
 マサコはたびたび、ケイコに向かってそう話す。まるで娘をおとしめるように聞こえるかもしれないが、そうではない。当のマサコ自身が「ウチは鳶しか産めなかったのに……」という意味である。娘は鷹を産んでしもた。
 いずれウチらを悠々(ユウユウ)と、かぁるく飛び越えてもうて、手の届かんところまでいってしまうんやろなぁ。

 ミユキはそういう人なので、そこらへんの子とはうまくいくわけがなかったのである。よそのそこらへんの子たちはまだ、知能も意思疎通(ソツウ)レベルも追いついていないから、一緒にすると惨事(サンジ)になる。しかしそれを偏見をもって(とら)えれば、タカユキの言うように「社会性がない」ということになるのである。

 さあしかし、親権者は子どもを小学校に通わせねばならない。それは法的な義務である。
 この時代はまだ、私立小学校に通わせるという選択肢は極めて特殊なことだった。私立(わたくしリツ)の学校は「おぼっちゃん、お嬢ちゃん」が通うところ。「ええとこの家の子ぉの通うところ」である。中流以下。ヨシアキの父は大工の棟梁(トウリョウ)

。マサコの実家は立派な商家(ショウカ)

。タカユキにいたっては実のところをいえば下流に没落した家の()である。この夫妻からは、例えば東京でいえば学習院とか慶應義塾とかいうような、世の中に滅多(メッタ)にない私立小学校へ入学させるという発想は思いもよらない、全く出てこない。家柄(いえがら)も収入も足りない。ごくフツーに、平凡(ヘイボン)に、公立小学校に、つまりは大阪市立の小学校に入れなければならない、というわけである。そのそこらへんの小学校に溶け込めそうにもないのであるが、知能の高いとみえるミユキだから、養護学校に入れるという選択肢も却下(キャッカ)された。
 最寄りの市立(いちリツ)の小学校に入れる。そのためにはミユキを、よその子たちをはじめ、学校の「先生」など親戚(シンセキ)でもない他人になじませて、両親のいない他人しかいない環境に居られるようにしなければならない。この両親はそう考えていた。
 ケイコは心配でしかたがない。ミユキを独りにしておくと、どんな(ひど)い目に()うかわからないからだ。いまも頭のなかには、

襲撃のことがある。実の祖父たちからすら、家の中でですら、あんな目に遭わされたことがある。このまだ幼いミユキを家の外に独りで出していいのか、と。
「おまえは過保護(カホゴ)や」
 タカユキはイラだつ。
「おまえはミユキをあまやかしすぎや!」
 結局は、この独裁者が、決める。
「一年間、幼稚園に入れるぞ」

 ケイコはミユキを連れ、平日の昼間に最寄りの公立幼稚園に見学に行った。しかし最寄りといっても、歩いて大人でも二十分くらいかかる。そこは京阪電鉄の最寄駅の近くで、つまりは民間鉄道で京街道に合わせて敷設された京阪電車なのだから、古くからある集落の市街に合わせて幼稚園を建てたことは想像がつくだろう。この立地はもっともなことである。それだから自宅マンションからは、遠い。

 ギイィイィヤアァアァーァッ! ドタバタバタッ……!

 文字で書けばそんなところだろうか。子どもの暴れまわる騒ぎの様子である。
 まるで動物園や。ミユキは思った。いや、動物園のほうがまだ静か。
 この歳のミユキにとってすら、むしろミユキにだからこそそれは、騒音としかいいようがなかった。ミユキは繊細(センサイ)敏感(ビンカン)だ。耳が、いい。
「幼稚園に行くか?」という話はあらかじめ、父親からもされていた。だから今日、試しに連れてこられた。お母さんは私をここに入れるつもりなんや、ミユキはそう思って覚悟を決め、気もちをそちらに向けはじめていた。
 思えば今までにも、母と一緒に買物なんかに出かけたときに、となりの区の小学校や中学校の横を通りすぎることは数えきれないくらいにあった。あの壁(塀)の向こう側では何してるんやろう? 別世界に思える。怪訝(ケゲン)に思った。緑色の網(フェンス)の向こうに見える子ぉらが強制的に集団行動をとらされているのが苦しそうで。滑稽(コッケイ)で。不気味に思えた。謎の集会。「あれは運動会や」。なにやってんのやろ。私やったらあんなんイヤや。
 幼稚園。歳は小さくとも、いよいよアレの仲間に入ることになる。これもお母さんのため。しかし――
 無理や。こんな子ぉらと一緒になんかできひん!
 母ケイコのほうが、思ったのであった。
 入園案内の話をしてもらって、パンフレットも受け取って帰った。その晩。
「あんないいかげんなとこやと、とてもやないけど無理やと思う」
 ケイコは夫に報告、陳情した。あそこは品があれへん。しつけが、できてへん……。
 ミユキの適応能力の問題というよりもどちらかといえば、ケイコの品性(ヒンセイ)や教育方針からくる問題だった。この子には、上品な男の人に育ってほしい。せやから今まで、しつけもシッカリして、行儀(ギョウギ)も厳しく教えてきたのに……。
「そうか、そうなんか。しゃあないな。ほんなら私立の幼稚園もあたってみるか。私は行かれへんからな。これもおまえが見てくるんやぞ」
 公立幼稚園ならばよそでも同じようなものだからである。私立しかない。
「はい」
 ケイコはようやく、ほっとした。

 近隣の私立幼稚園を、電話帳なんかを見て、さらってみる。一駅は向こう、はるか遠い幼稚園が一か所、候補にあがった。
 つまりはこの時代、私立幼稚園自体が少なかったのである。いわゆる団塊(ダンカイ)ジュニアが大挙(タイキョ)して押し寄せたというのに、公立幼稚園ですらも充実していなかった。ましてや私立幼稚園は、とりわけ当時の日本人からすると、私立小学校と同じように、あまり望ましからぬ存在。実のところは、共働きも核家族もそれほど多くなかった時代に、幼稚園や保育園には必ずしも入れなくとも済んでいた。
 結局は、その遠い幼稚園以外には目ぼしいところが存在しなかった。最寄駅の一駅先の、その駅からさらに向こう側。

 ケイコはミユキを連れて、その私立幼稚園まで遠路はるばる歩いて、ようやくたどり着いた。大阪市内の民間鉄道の駅間はたかがしれているとはいえ、自宅マンションからその幼稚園までともなると、身体のまだ小さいミユキには歩いて一時間ほどはある。だから通園バスが来てくれることを前提としたうえで、そこを検討に入れていた。
 園内を見学して、ケイコはとても気に入った。園内は掃除も整理整頓もキチンといきとどいている。園児たちには節度があって、行儀もわるくない。先生の云うことをちゃんと聞いている。育ちのいい子が多い。
 品がいい。
 気がかりだった通園バスは、来てくれるという。私立幼稚園は、需要があるにもかかわらず供給不足の時代。通園希望者の住所はさまざまで、広範囲にわたっている。だから、バスは一台しか保有していないというのに、コースを増やして三コースも走らせて対応していた。そのもっとも最近に新設した三コース目に、組み入れてくれるという。なぜならば、自宅近辺は近年に大規模マンションが林立して若年層人口が急増、この幼稚園へはとても遠いというのに、隣のマンションには入園者がいたからだ。ちなみに同じマンションには、いない。それにしても、需要を積極的に拾おうとする、熱心な幼稚園である。

 しかし、ものごとを決めるのはいつもタカユキだ。
 夜、パンフレットをなめまわすように見て、各種費用も確認して、高いなぁー、まるで他人のために支払わされるかのような態度で、例のごとくフキゲンに文句をつけたあと、
「まあ一年だけやからな」

 ミユキは春から、この私立幼稚園に入ることに決まった。年長組だ。
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