第八章 第一節 幼いミユキとテレビの時代

文字数 3,118文字

 ところで。
 突然ではあるが、ミユキは「全員集合世代」だ。それに、かろうじて「ピンク・レディー世代」でもある。

 戦後しばらくしてからは、テレビ番組が流行ったものだった。だから、ミユキの両親は戦後生まれの「団塊世代」だが、それは中高生の頃にはテレビに親しんだ世代である。彼らは『鉄人28号』『鉄腕アトム』『ウルトラQ』『魔法使いサリー』などを、いわゆるリアルタイムでみていたわけで、その頃は白黒テレビだったはずである。それに比べればミユキの世代は「団塊ジュニア」で、カラーテレビだ。
 手塚治虫(おさむ)氏だって、赤塚不二夫氏や石ノ森章太郎(いしのもりしょうたろう)氏や藤子不二雄の両氏だって、水木しげる氏だって、やなせたかし氏だって、その作品は戦争経験に影響を受けている。ときには、善悪の相対性、人間に潜んでいる愚かさや悪といった陰をも描き出していることがある。
 戦後復興期のテレビは、戦争への反省という「陰」を負うと同時に、戦勝国アメリカ合衆国に(なつ)くような、いわゆる「アメリカナイズ」を進めていたといえる。米国のテレビドラマなどが流されたり、米国人であろう人物が出てくるテレビCMもあった。

 それが、いわゆる高度経済成長期に入った。ここは大阪である。ミユキの母親もときどき語りぐさにしていたのは、一九七〇年の万国博覧会、略して ”EXPO ’70”。この頃の両親は二十代。「人類の進歩と調和」がテーマの大阪万博は、日本が戦後復興を遂げ、さらなる「成長」を進めている華やかさの象徴だった。
 そのいわばシンボルとして建てられたのは、岡本太郎氏の作「太陽の塔」。それは今も万博記念公園にそびえ立っている。「太陽の塔」は大阪人にとって親しみ深く、とりわけこの万博を実際に経験した世代にとってはなおさら。それに、岡本太郎氏は存命なのはもちろん、まだまだ大活躍していた。「芸術は爆発だ」は名言として世の人々に、真意を知ってか知らずかはともかく、有名だった。おそらく多くの人は岡本太郎氏を「変人だ」と思っていただろう。

 ミユキの幼少期にあってももちろん、世の中は戦争経験者が中心だった。戦後生まれはせいぜい三十代である。テレビ制作者にも、テレビ出演者にも、戦争経験者は多い。
 しかしこの時代、政財界・産業界が目指したい方向が変わり、だから大衆を感化して社会を誘導するマスコミであるテレビ放送も、同じように方向性が変わった。戦後復興期のテレビと異なる。復興期が終わり「冷戦」のもとでいわゆる資本主義経済の「西側諸国」として贅沢(ゼイタク)享楽(キョウラク)へと進もうとしている時代のテレビ。冷戦で「東側」に対抗し勝っているということを示すためには、世の中が豊かで人々が愉快であらねばならない。贅沢は、単なるワガママな欲望というのではなくて、冷戦に勝つために推進されていたのだ。
 そんなわけで世のなかは、「平和」のもと、豊かで物であふれていて、うつつをぬかしてふざけていられる風潮へと変わっていった。もちろん、その社会状況には、かつての戦争の記憶がつきまとい、冷戦という(かげ)もあったわけなのだが。冷戦に勝つためにふざけているというような、奇妙な構図がある。あるいは、軍拡と核戦争の危機から目を背けるために、人々はうつつをぬかす。広告代理店出身の阿久悠(あくゆう)氏がピンク・レディーに奇抜なことをさせて意味不明な歌を歌わせたのだって、そういう時勢だったからなのだろう。
 そうした葛藤の時代だから、例えば「全員集合」のコントで牛乳を吹き出せば「食べ物を粗末にするな」などというように、いわゆるPTAの苦情が噴出したものだった。なにせ戦時中や戦後すぐは、食べ物も足りなかった。餓死者も多かった。戦争経験者当人にしても、教訓を語り継ぎたい教育上の理由においても、食べ物を粗末にすることは許せない。しかし他方のテレビ制作者やテレビタレントにしても、戦争経験者は多い。もちろん、ザ・ドリフターズのいかりや長介リーダーも戦争経験者で、それでもそういうコントをやっていたのである。戦争の教訓を語り継ぎたいという思いと、「平和ボケ」していられる贅沢との、そういう葛藤なのだ。

 その「ドリフ」にしてもコントで有名になったが、そもそもは音楽バンドである。
 もとをたどると、戦後に米軍が進駐してビッグバンド・ジャズをもちこんだ。その音楽に刺激を受けた日本人も音楽活動を始めた。例えばハナ(はじめ)氏にしても谷啓(タニケイ)氏にしても、あるいは「宇宙戦艦ヤマト」の宮川(ひろし)氏にしても。ミュージシャンでなくとも、ジャズの影響を受けた著名人は多い。例えば大橋巨泉(キョセン)氏やタモリ氏などがジャズの影響を受けながら、その後のテレビ番組を長らく牽引していったのである。
 その後はザ・ビートルズの登場もあり、日本でもいわゆるグループサウンズ全盛の時代に突入した。ミユキの両親など団塊世代というのは、その時代に青春をしていたといえる。そしてそうしたバンドのなかでもコミカルな方向性で活動する「コミックバンド」のひとつが「ドリフ」だった。

 ミユキが幼い頃は『8時だョ!全員集合』だとか『欽ちゃんのどこまでやるの!』だとかをみていた。
 ミユキは、その「欽どこ」の三人組ユニット「わらべ」のちょっとしたファンだった。
 しかしある日、メンバーのひとりが出てこなくなった。新潮社の『FOCUS』に、性交渉後と思われる裸の姿でタバコをくわえた写真が掲載された、いわゆる「ニャンニャン事件」が原因である。なぜこんな写真が提供されたのだろうか。もしかするとこれは「リベンジポルノ」のはしりだったのかもしれない。
 ともかくそんなことは知らないミユキが両親に尋ねても、「ハタチになってへんのにタバコを吸ってたからや」程度のことしか教えてもらえなかった。まだ幼いミユキには説明しづらい事件である。こうした不祥事があると芸能界から「干される」という社会の事情についても。
 ちなみに、この騒動で「まぐれ当たり」をして大売れしたことで、『FOCUS』は政治の疑惑よりも芸能ゴシップのスクープに力を入れるようになってしまったという。商業性に固執しない純文学雑誌『新潮』の、その新潮社が。また、そののちの講談社『FRIDAY』創刊とビートたけし氏による事件にもいくらか因縁があるといえるのかもしれない。これも、世のなかが享楽的で商業的へと変わっていったということなのだろうか。

 ほかにミユキが特に気に入っていたテレビ番組が『ザ・チャンス!』。番組開始当初こそピンク・レディーが司会だったが、早いうちに伊東四朗氏に交替した。彼の、「ニン!」とか、ゲームに勝ち残った参加者に賞品目録を渡すときにもいわゆる表彰式のときの音楽の「ニーンニーキニーンニーン」と擬音を付けたりとか、全国的に大人気になった。ミユキの母親やその母も、機会あるごとに話題にしたものだった。
 ただ、ミユキがこの番組を気に入っていたのは、選ばれた視聴者が参加するゲームコーナーで、そこで出てくる大道具のしかけに興味をもったから。
 ちなみにその伊東四朗氏にしても戦争経験者で、幼い頃に東京大空襲を体験している。彼の笑いの陰には戦争経験があるのだろう。
 この頃、日本の世の中では多くの人が戦争経験者。その陰を負っていることは、みなの暗黙の了解、共通認識。だからこそ団塊世代はことさらに、戦後生まれの「戦争を知らない世代」として世間でいわれたりしていた。

 幼いミユキも、世の大人たちが戦争の記憶を背負っていることは知っている。祖父母も話しているのだから。
 テレビ番組で面白おかしくやっていたって、出ている多くの大人が戦争を知っていること。
 人間には光と陰があること――。
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