第八章 第三節 幼いミユキと苦しい呼吸

文字数 3,800文字

 母親が食事をつくる。父親は料理をしない。ちなみに、母親の実家でも、父親の実家でも、そうだった。
 ミユキは、母親が出すものは食べたいのだ。それに、父親が怒るのもイヤだ。
 母親は、果物もよく出す。例えばリンゴだとか。それにミユキがスキなのは、加糖練乳つまりコンデンスミルクのかかった苺だった。白と赤のコントラスト、甘いコンデンスミルク。そして母親は、苺の

をわざわざ切り落として出してくれる。
 他方で、ナスやオクラだとか、きゅうりとかトマトとか、食べると口のなかや(のど)が痛くなったりかゆくなったりする。だからそう両親に訴えるのだが、本気にされない。「そういうもんや」「みんなそうや」、父親は「言い訳するな!」バーンッ、ってなる。

 ミユキは起きているあいだ、いつも考えごとをしている。勝手に出てきてしまう。生き抜くためには考えなければならない。ひどい目に遭わないためにも、ひどい目に遭っても、考えなければならない。安易に行動に移すと危険なのだから、おのずと内向的になる。思考が多く、止まらない。しかし思うように発言ができない。話したくとも伝えられる相手がいない。なので、独り言が多い。だれも聞いていないところで小声で。いつの間にか、おのずとそうなった。
 家で本当に落ち着けるのはトイレだけ。そこでだけは、独りで自由にしゃべる。テレビやラジオの番組みたいに、独りで思うように発信する。だれも受信しないから。

 抑圧的で滅多に自己主張をしないので、たまに魔がさして、無意識に意味もない行動をとってしまったり、理由もないのに無性に譲れなったりするときがある。もしかするとヒステリーを起こす母親と同じようなものなのかもしれない。
 トイレで紙を大量に流して排水管をつまらせたことがあった。水(びた)しになって、下階に浸水したのではないかと両親が謝りに行った。
 ある日、母親と総合スーパーマーケットに行ったとき、専門店街の玩具店で、ある人形をわけもわからず無性に買ってもらいたくなって、居座ったこともあった。その人形がそんなに欲しかったわけではない。本当は、自分を受け容れてほしかったのだ。けれども、「買えへん」「置いていくから」と、実際に(ホウ)っておかれてしまった。そんなわけでもうグダグダになって、買ってもらえないまま終わってしまった。

 それでも旅行のときくらいは、三人でいても日常の雰囲気から少し解放される。父親の気分が変わるからだろう。
 父親の夏休みに、家族三人で旅行をする。いわゆる盆休みなのだが、この一家に帰省先なんてものはない。両親とも実家は大阪市内。そのうえ、両親とも父方は大阪出身ではないが、その親類とは縁がほぼ切れている。帰るところなんてない。
 旅の行き先はやはり、父親が一方的に決めてしまう。このころは景気がよかったので、会社も保養所を運営していた。保養所を利用すれば宿泊費用が少なくて済むので、そうなりがちだった。
 会社の保養所は、飾り気はないものの備品はそろっているもので、部屋にはクーラーも付いていたし、卓球台やビリヤード台を備えた娯楽室まであった。ただ、部屋で寝るとなぜか、鼻の調子がわるくなる。
 初めて海に入ったのも、旅行のときだった。海水浴場。しかしミユキは泳げないし、小さく軽い身体では波に引きずられる。そうすると、足がつかないところに出てしまう。波にのまれて水中に引きずり込まれると、死ぬかと思った。
 旅行から帰るときには、あの日常が戻ってくるのかと思うと恐怖で、帰りたくない、このまま家族が仲良く穏やかなままで過ごしたいと思うのだ。

 幼稚園に入れられる前のころ、平日は母親とミユキの二人だけなので、母親の実家に行くことも多かった。祖父もまだ国鉄マンだったから、実家には祖母しかおらず独りで寂しくしているので、気分転換を兼ねて娘が会いに行く。
 そんなときに祖母も、間食として果物をよく出したものだった。リンゴ、スイカ、ブドウ、ほおずき……。
 そして、母親と祖母の二人がしゃべっているところにミユキは入っていけないから、折り紙などをして(ひま)をつぶす。
 親・子・孫の三人で買い物にもよく行った。
 二人の帰るときにわざと地下鉄の最寄駅を利用せず、なごり惜しみながら三人で近所の商店街を反対側まで行って、そこから大阪市バスで帰ったことが多い。母親も「バスでゆっくり帰ろか」と。「おおきに」「ありがとう」と母親と祖母、二人がくりかえし云いあって別れる。単純な感謝ではなかっただろう。娘に戻れた時間。それも家に帰れば、苦しく痛々しい生活に戻るのだ。
 バスのエンジンの周期的な騒音や振動、それにニオイ。ミユキにとってツラいものだ。ただ、隣には母親がいる。それに車窓から見える街の様子に興味が沸いてしょうがない。ミユキはもう漢字が読めるから、看板などをしきりに読んでいる。たぶん一生に一度も降りることがない街。実際にはどんなところなのか、停留所名も見ながら想像する。均一運賃なので変化する運賃表はないのだが、掲示されている路線図を興味津々(シンシン)に眺めたり。「ゾーン制運賃」の「ゾーン」ってどういう意味なのか、結局いまいち解らなかったり。もうオイルショックの時代ではないが、「省エネルギー 電車・バス」の小さなステッカーが車内に貼ってある。そして自宅の最寄り停留所に降りるときに「停車します」(ボタン)を押すのはやはり、ミユキの役目なのである。それが、一日の最後のたのしみだった。くたびれているから帰らないといけないが、帰ればまた恐怖と苦痛に戻る。
 梅田にもときどき行った。阪急百貨店で宝飾品や化粧品などを見たり。やはり高い物は滅多に買えないので、おもに「ウィンドウショッピング」なのである。そのころの一般庶民には、百貨店に行って夢みるという趣味も一般的だった。景気がよく、こんな「冷やかし」の客が多くても百貨店の経営が成りたっていた。店員もずっと多かった。祖母と母親の二人が商品を見ているあいだ、ひまだが二人から離れるわけにもいかない。宝飾品売場のショーケースのガラス板を横から(のぞ)きこんで、反射して無限に拡がる緑色の宇宙を興味ぶかく(なが)めていたりしたものだ。実際の宇宙も案外、こんなものなのかもしれない。そんな気がしながら。
 「デパ地下」なんて言葉はまだなかったが、地下が食品売場なのはよくあること。混雑していて、わいわいと(にぎ)わっている、そんな阪神百貨店の地下で、いか焼きだとかを買って帰ることも多かったものだ。そう、いか焼きは母親のスキな食べ物のひとつだった。なぜ阪急と阪神、両方の百貨店に行くのかというと、阪急は高級、阪神は庶民的という、すみわけがあるのだ。阪急百貨店は高価で上品。阪神百貨店のほうが手頃。東京でいえば三越と伊勢丹の関係みたいなものなのかもしれない。ただ、阪急も阪神も鉄道系。阪急は東京急行のような都市開発企業で、沿線住人は裕福な傾向がある。「ぼくのまちの阪神電車」は、たとえば京浜急行みたいに海沿いで昔からある集落をつないでいる。まさか、のちの時代に両者が経営統合なんてするとはまだ、だれも夢にも思わなかった。

 ところで、まだ三、四歳ころのミユキだったが、ある疾患が重くなり始めていた。
 鼻の穴が左右とも詰まって、鼻では呼吸ができない。
 慢性アレルギー鼻炎。耳鼻咽喉科でそう診断された。いつ終わるともしれない通院生活が始まった。
 それに、アトピー性皮膚(ヒフ)炎も、重くはないもののあった。それは皮膚科にいかないといけなかった。
 一時期は気管支喘息(キカンシゼンソク)にもかかった。かぜなんかと比べると、すさまじい。かぜのときにも母親に看病されて、高熱を出したら「アイスノン」が出てきたり、(せき)には「ヴィックスヴェポラッブ」を塗ってもらったりしたものだった。しかしかぜなんかに比べると、喘息は呼吸そのものができなくなり死ぬかと思うくらいだった。薬剤をスプレーで吸引した夜中のことをいまでも憶えている。

 アレルギーの原因は、一つには(しぼ)れない。もともと、両親ともにアレルギー体質。遺伝はあるのかもしれない。しかしそれだけではないだろう。
 例えば、自動車の排気ガス。外出すれば排気ガスも、粉塵(フンジン)煤煙(バイエン)も吸ってしまうが、国道沿いのマンションに引越してからはさらに深刻だ。家にいても(まぎ)れ込んでくるし、せっかく洗濯してバルコニーに干した物にも付く。
 ほかにも、ハウスダスト。身長のまだ低いミユキ。それにしょっちゅう、()ったり、ジュウタンや畳に寝転がったりもしていたから。ほこりやダニなどにやられてもおかしくない。
 食品添加物や残留農薬など、食べ物も原因になった可能性がある。当時は今と比べれば基準が不十分。そして合成着色料だってジャブジャブつかわれていたような時代。売れるからといって食材も着色していた。例えば、かずのこ、たらこ。菓子も、子どもが喜ぶからといって原色バリバリの色にしたりしていた。
 ミユキの身のまわりでは、化学物質はそれだけではない。例えば、母親の化粧品、ヘアスプレー、香水。母親に付いて近くにいるから、さまざまな粉や気体を吸い込んでいたから。

 幼いミユキは受動的に、世の大人たちがしてきた汚染のツケを、一方的に負わされている。医療費は親が払う。しかし、苦痛も、労力も、医療機関に通う時間も、ミユキ本人が負わなければならない――。
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