第三章 第四節「夜逃げするぞ」と父は云った

文字数 3,195文字

 年を越して三学期も始まっていた、冬のある日曜日のこと。
 ミユキは熱転写式プリンターの騒音で目が覚めた。しばらく二度寝する。休みの朝くらい、早起きせずにいたいものだ。
 しかし、のんびりすることも長くは叶わなかった。父親に呼びつけられ、起きて部屋を出てくると、
「お前も手伝え」
 父親にそう命令された。
 書類づくりのようだ。母は既に手伝っている。各ページを揃えて一部ずつステープラー()めする作業である。
 寝ぼけ(まなこ)で手伝う。
 管理組合関連の書類であることは状況から判る。寝ている間に、父親がパソコンで作成し印刷したものらしい。これを各戸に配布するのだろう。
 この書類の中身に何の意味があるのかは、一切説明されない。父は独裁者で、秘密主義者だ。彼からすれば、妻子には説明する必要のないことだ。しかも彼は、人に信用のおけない人物である。家族に対してでさえも。彼には謎が多い。しかしなぜそこまで秘密主義者なのかは、ミユキにも解らない。家族にも隠しごとをしている。決して言えないような、やましいことがあるのだろう、妻子二人ともがそう勘ぐっている。
 それに、彼は家族を見くだしている。現にここで、職場の「お茶()み」程度の感覚で二人をこき使っている。事務員くらいの扱いだから、やらせていることの中身について教える気もないだろう。
 寝起きでいささかぼんやりしたまま。書類の中身を読むこともなく、その時間もなく、ただ黙々と作業。途中で足りないことに気づいた父親はまた急いでコピーをとってきたりした。
 書類がまとまると彼は、いそいそと勇んで、各住戸の郵便受けへと投函(トウカン)しに行った。意気揚々、妙に舞い上がっているようにも見えた。
 いったい何だったのだろう? そのときのミユキには知る機会もなかった。

 *
 
 翌日は月曜日の未明。
 急転直下する。
 ミユキも叩き起こされた。
 ダイニングテーブルに三人が集まる。
「お前は学校を休め」
 父は云った。
「夜逃げするぞ」

 彼の配布した文書に、売主デベロッパーや管理会社が激怒して脅しをかけてきたというのである。任侠(ニンキョウ)つまり暴力団の介入までもほのめかしているという。
 もうここには住めない。突然一方的に決まった展開に、二人は困惑した。「夜逃げ」といっても、どこに行くというのか? うちにある物はどうするのか? 隠れて暮らすのだろうか。学校にも、もう通えなくなるかもしれない……。
 父親は、本家の当主に電話して相談しようと言い始めた。その故郷からかつて追い出されていてほぼ絶縁状態だというのに。ミユキも会ったことはなく、その名しか知らない。
 そもそも、本家の当主に相談して、何ができるというのだろう? ミユキには全く意味不明だった。それはもっともなことである。封建的な父親は本家の当主の権威にすがろうとでもしたのであろうが、なんの価値もあるまい。そんな遠方の人間に、任侠に勝てるような影響力でもあるというのか。解らない。

 くだんの文書の内容は、売主デベロッパーが管理会社から金銭を受け取っているという疑惑を糾弾するものだった。管理会社が管理組合から受託していることの見返りに、売主デベロッパーと金銭授受。つまりは、管理組合が払っている代金の一部が、利害対立しているデベロッパーに渡っているという疑惑である。
 しかしこの文書が問題になったのはその疑惑よりも、管理組合の理事長名で作成し配布されていたことだ。これでは、総会はおろか理事会も通っていなかったのに、まるで管理組合で決まった意思のようにとられる。理事長が、正当な手続なしに独断でした行動だ。
 区分所有者のうちでも、デベロッパーへの態度には温度差がある。休日だというのに、関係が決定的に悪化して交渉妥結の余地がなくなることをおそれた者は「どうなっているんだ」と管理組合役員に問合せたりした。また、デベロッパーや管理会社に文書を見せたりして釈明を求める者もあった。
 もちろん、デベロッパーもこの文書を知るところになったので、管理組合に圧力をかけて、攻撃する動きを潰しにかかったのである。これもわずか一日ほどの間のことだった。
 そうすると、あっという間に理事長の責任問題になった。各戸でも、理事長に賛同するものも一部にはあったものの、「やりすぎだ」「困る」「やめてくれ」という意見が多い。

 早朝だというのに、マンション内でバタバタとやり取りがなされた。父親があちこちと相談しに行く。廊下を役員や、事態に積極的な区分所有者の人が行き交う。それは家の中にいるミユキにも、開け放した玄関扉から見えた。
 結局は、理事長に同情する区分所有者が間をとりもって、理事長辞任で決着をつけることになった。実質的には解任である。
 売主デベロッパー側も、なるべくことを荒立てずに鎮静化させたいものである。理事長辞任で今回の事件は手を打つことにし、彼は深追いされずに済んだ。
 だいいち、これが「夜逃げ」で解決するような時代ではない。法律的にも、所有者を追い出せはしないだろう。ミユキの父親は、発想がズレている。こういう発想が出てくるのは、彼に昔の人生体験があったからなのだろう。
 独りで突撃し、勝手に自滅した。敗戦。あっけない。たかが二日程度で天下は決着がついた。家族さえも知らされず、勝手に巻き込まれた。

 *

 欠陥問題に関してはその後も、調査と補修が続けられた。ミユキの家も、デベロッパーや管理会社とわだかまりがあろうと、直しに来る担当者は現場の工事屋である。粛々と直して去った。
 マンションの建物自体の検査も終わり、基準の範囲内だという結果が出た。欠陥はもっぱら、下請業者の内外装における手抜き工事だったのである。

 それにしても、なぜ彼はこのような独断的な行動をとったのか。それはミユキにも詳しく分析可能なほどではないが、なんとなく感覚的には解っていた。
 まずは、欠陥住宅を(つか)まされて「損した!」という感情である。そこで怒りが沸き、「なんとしてでも取り返してやる」と思った。不健全な金銭欲がある。
 つぎに、「家父長(カフチョウ)としての威厳が潰された」という認識もあった。それを回復しなければ家族に対して面目が立たない。そうした感情のもとに、カッとなりやすい性格から自己中心的な「正義感」が沸いた。
 そして、「理事長は偉い」という権威主義的で封建的な発想である。「自分が解決してやる」と考えた。いわゆるパターナリズム、まさに父性主義だ。理事長は偉い、そのポストに選ばれることに(ゆが)んだ喜びがあったから、彼は理事長になることを引き受けたのだろう。就任時だって、「イヤイヤ」と匂わせつつも、内心では嬉しくてしようがなく浮かれていた。
 ミユキの父親には、大学を出ていないとはいえ、バブルの勢いに乗って大企業で管理職を務めるくらいには知能がある。劣等感と同時に、なまじ自分は頭がいいと思っているがゆえに、客観的にならず感情的で自己中心的に、調整を怠って独断専行をするのである。
 またもや、カッとなって激怒する悪い癖が最悪の形で発露したわけなのだ。彼は自分が正しいと確信しているところがあり、感情的になるとしばらくは冷めないで激しく思い込む。あの日も客観的に()めることはないまま、「冷静に」「計画的に」ことを進めてしまった。

 ともかくこうして、ミユキの父親だけでなく家族三人とも、マンションの中で「後ろ(ゆび)さされる」存在になった。
 自宅は、居心地の悪いところになった。父親当人は会社に行くからまだマシだ。ミユキは学校に行く間は家にいないので、ちょっとはマシだ。ミユキの母親には、一日中にわたり暮らし、独りの時間が多いので、とても怖ろしい。こんな環境では住み続けられそうにない。

 あのとき中身を読んで意地でも止めておけば。ミユキはいまでも後悔している。ぶん殴られてでも止めるべきだった――。
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