第十八章 第八節 一年の締めくくりに

文字数 4,416文字

 ミユキの通わされている幼稚園では、冬には学芸会というものがある。年度末に近いこの時期のそれは、幼稚園での一年間の教育の成果、集大成(シュウタイセイ)披露(ヒロウ)するための行事だ。
 ミユキの組の演目は、劇だった。
 小学生ならばまだしも、年長組とはいえまだ園児である。ほとんどの園児は、ものをよく知らないし、思考能力も未発達。演目を何にするかというのは教諭が決めていた。
 劇の内容は、西遊記(サイユウキ)。中国由来だし、登場人物も物語も幼稚園にしては高度な内容である。もちろん、わざとだ。この私立幼稚園の園児らの知能レベルや、父兄の社会身分レベルに合わせれば、こういう小学校低学年以上でもおかしくないような、難度の高いところに(いど)むことになるのである。
 そして、配役も教諭が決める。おおまかなオーディションのようなことをして決めていた。なにせ知能や自意識の発達程度も、園児によりかなり差がある。そもそも同じ学年でも何月産まれかで、差が大きい。見た目や性格だけで済む問題ではなく、台本の理解能力や記憶力が重要である。そのうえで、劇をやるうえで配役をちゃんとこなせるか、勝手に暴れたりしないか、そしてようやく、その園児がどの役の印象に合うかどうかの問題になる。だから主役級が割りあてられる園児というのは、外見や性格はどうあれみな、それなりに賢く、云うことをきく子ばかりだ。西遊記で主役級といえば、孫悟空(ソンゴクウ)猪八戒(チョハッカイ)沙悟浄(サゴジョウ)玄奘(ゲンジョウ)三蔵法師(サンゾウホッシ)。また悪役いわゆる

、ヒールである、金角(キンカク)銀角(ギンカク)。その悪役から助けてもらうヒロインも用意するというのが、プロット、話の筋からして、お定まりといったところだろう。なにせヒロインがいなければ男ばかりになってしまう、それは幼稚園としては困る。ここは男子校ならぬ「男子

」ではない。女児の配役も重要である。女児の人数も同じくらいいるし、その父兄にも納得してもらわねばならないからだ。そして――戦うのは男で、助けてもらうのは女だ、それが日本社会でも当然の認識で、偏った固定観念が居座っている。
 ミユキは一人飛び抜けて、知能も自意識も発達している。物静かで暴れないが、云われたことはよく理解してちゃんとやる。一人だけイレギュラーな、時代のオーパーツみたいな、あってはおかしい存在が、現実にそこに、いた。だからミユキの配役がどうなったかは、想像のつくところだろう。
 ミユキは虚弱で、やせ細っていて、男っぽくない容貌(ヨウボウ)までしている。それは実在していた彼が屈強(クッキョウ)で高身長の大男であったという史実とは正反対なのだがしかし、日本の世間では『西遊記』といえば「モンキーマジック」「ガンダーラ」、タケカワユキヒデ氏のゴダイゴの、あれだ。孫悟空といえばマチャアキ……堺正章氏であるように、沙悟浄が借金しそうなように、この役といえばやはり、夏目雅子氏なのであった。だから教諭らには、利発でそして線の細い、まるで女児のようなミユキが、ピッタリはまるように見えたのである。

 ミユキはセリフを憶えなければならない。
 本当の名は玄奘なのだが、脚本のなかでは「三蔵法師」という、のちの称号のほうで役が決まっていて、玄奘という名は劇中に全く出てこなかった。「玄奘」という名が子どもには難しいからかもしれなかったが、なにより日本人には「三蔵法師」のほうになじみがあったからだろう。実際に世間では「玄奘」といわれても判らない人も多かったはずだ。そのくらいに知識レベルはまちまちである。中国伝来の仏教国ともいうはずの日本で、仏典漢訳の第一人者の彼の名がわからないというのもおかしなことだったが、日本の「仏教」というのがそもそもそんなおかしなものである。
 物語は、あとになるほど登場人物が増える。破綻(ハタン)してきているのではないかというくらいに膨張していて、それは園児の数に合わせて役も多くしなければならなかったからだろう。ミユキでも、台本を読んでも、金角と銀角の最初の登場シーン辺りまではついていけても、終盤はわけが解らなかった。ミユキの言うセリフは劇の一番最初にはじまり序盤に集中していて、後半になるとほとんどなくなってしまう。最初から順に憶えていくからなおさらに、終盤のほうはよく解らない。
 ひたすら台本を読み返し、練習を重ねる。独りでイメージトレーニングもする。そして園内では稽古が何回か行われ、会場になる講堂で、通し稽古(ゲイコ)、リハーサルも行われた。教諭の厳しい目が注がれ、(しか)られる。そのなかで、知能の発達が早く、情感たっぷりの演技力のあるミユキ。これまた(さま)になる孫悟空役の子と並んで支えになる存在で、教諭からも期待をかけられる、というより、頼られる存在だった。教諭も人の子である。失敗するのではないかと怖れを抱いて、シッカリした子にすがる思いがあることを、ミユキは直感的に気づいていた。

 学芸会の本番は、ガラガラのリハーサルと異なり、観客で満席。ミユキの母ケイコも、父親のタカユキも、観に来ている。そしていつものごとくタカユキはズレていて、鑑賞そっちのけで写真撮影に精を出していた。
 ミユキのいる、年長でも最もレベルの高い組の演目「西遊記」は、学芸会の終盤である。
 今回の学芸会でも小さなアクシデントは各演目で散発的に起こったが、所詮は園児である、織込済(おりこみずみ)のことで「微笑(ほほえ)ましい」と理解される。機材のトラブルもあって一時中断もあったが、進んでいった。全国的に見られるような、ごくありふれた幼稚園のイベントだ。
「西遊記」本番。ミユキのセリフからはじまる。リハーサルにはない満場の反応。観客らの視線。物語前半の流れを背負っているのは私。荷が重い。敏感で自意識の発達しているミユキは、自分で心がけて観客の存在をなるだけ意識しないようにしていた。
 劇が進み、ミユキの存在感はどんどんうすくなり、弟子たちと金角銀角のアクションシーンなどが見せ場になる。裏に引けたり、突っ立っているだけというところになってきたりする。そして、判っていたことだが、物語は飽和し、登場人物であふれかえる。出演者はみな幼稚園児、プロの舞台俳優でさえも本番のその場ではアドリブを(まじ)えたりアクシデントをとりつくろったりするものだが、素人、ましてや幼稚園児なのだから、一人ひとりがめいめいにこなしていると不正確で、わけが解らなくなってくる。そんなだからミユキにとってですらも、たまに出てくる自身のセリフには自信がもてず、なんとなくこなしてしまった。
 しかし観ているほうは、もとの脚本を知らない。なんとなくであっても物語として流れが破綻せず成立しているならば、判らないものである。
 大団円。大喝采。「西遊記」は、観客のほうからすると無事に大成功。こうしてミユキの学芸会はおわった。

 ミユキは連れられて、ヨシアキの家に行った。
 ほぼ定期的に顔を出しに行く。タカユキとヨシアキのあいだには敬遠するようなややこしい距離感がありはしたが、ケイコは実家である。そしてミユキは孫である。
 ケイコは学芸会のときの写真を持参する。いうまでもなく夫が撮った写真だ。それを見せながら、ミユキ同席のもとで実母に報告した。
 とても喜んで面白がってマサコは、ミユキをチャカす。
「スキなオンナノコ、おるんやろ? どの()、どの娘?」
「いーひん」
 正直に答えた。興味がない。とりわけ子どもには。気にしていない。関わりたくなかった。私と同じくらいにはちゃんとした人でないと困る。
「せやかて、おるんやろ? おばあちゃんには隠さんでええから、云うてみ?」
「せやから、いーひん」
「そんなこと言わんと。誰にも云えへんから! なっ! なっ!」
 パンパンパンっ。背中をたたく。
「ねぇ、おるんでしょ?」
 ケイコも柔らかく細い声で、ミユキを促した。
 もうこうなると、しようがない。本意ではないが、その場しのぎでウソをつく。ミユキは、写真に写っている女児を指でさした。学芸会の進行アナウンスを担当していた園児だ。
 ようやくマサコは満ち足りて、笑って納得していた。

 みんな、スキな人がいないと、恋をしていないと、気が済まないらしい。おかしなことだ。

 ついに三月。四月になったら小学校に入らなければならない。大阪市立、公立なので、入る学校は校区ごとに定められている。「越境(エッキョウ)入学」は事実上では禁止されている。
 ミユキは母に連れられて、入学説明会に行った。期待とか喜びとかいうものは、ない。なんとなくだが、幼稚園よりも酷いことになる予感がしていた。しかも、幼稚園は年長一年間のみだったが、小学校は六年間……六倍もあるのだ。
 説明会の内容は父兄向けなので、入学する子が同席していようがほとんど相手にされていない。子どもに理解させる気はないし、「義務教育だから」と、納得させる気も最初からないようだ。親権者に対してでさえも、あくまでも説明である。何がどうあれ通わせなければならない、その結論は決まっている。
 帰りに、いままで入ったことがない書店に入った。街の一角にある、個人経営の零細な店だ。
 この時代、地元の商店街に大規模チェーンの書店が存在することはまずなかったし、しかしそもそも大資本が発達して「喰う」ことは進んでおらず、街の個人商店は数多く健在だった。コミックでも出てきたシーンでいえば、立ち読みしていると店主がハタキで遠回しに追い払おうとするような、そんな規模の店が普通にある。
 それで、御褒美(ゴホウビ)やからと、アニメ雑誌を買ってもらった。徳間『アニメージュ』、角川『月刊ニュータイプ』。この店ではとりあえず在庫で置いてはあったが売れそうになく、返品をくりかえしていそうに見えた。
『アニメージュ』のほうが古参で、連載もしていた宮崎駿監督で有名だったが、後発の『ニュータイプ』のほうが紙も印刷も綺麗な印象があった。しかし内容となると『ニュータイプ』のほうは、ミユキにはちっとも知れない。ミユキのセンスは女性である。ミユキはテレビアニメを視ているはずなのに、本ときたら小説や『漢字の本』や公文式(クモンシキ)、学習雑誌と『ドラえもん』などで、アニメ雑誌は初めてだった。なにせ『ニュータイプ』にしても創刊したて。中味も知らないことばかりだ。そして内容が、男クサい。

 学芸会があった講堂もガランと静まり返って、冷たさが支配している。もうすぐ卒園だと思うと感慨ぶかかった。
 しかしいよいよ卒園式ときたら、ミユキはあまりよく憶えていない。
 いずれにせよ、ようやく解放されるという思いと、それと同時に四月にはじまる小学校への重々しい思いとで、卒園式に感動や感激はほとんどなかった。そして、制服や通園かばんや、さまざまな道具、これらに役割をおわらせることが、なんだかモッタイなくて、申しわけない気がした。

 ミユキの幼稚園時代。短いはずが長いような一年間は、こうして、ようやく、おわった。
 これからは、もっと悲惨な六年間がはじまる――。
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